青山の児童相談所建設に見る日本のgentrification

 青山で児童相談所の建設に反対する人が多いという話を聞いて、アメリカでようやく問題になり始めているgentrificationが、日本ではとっくに完了して、地域社会を根絶していたんだと気付かされた。
 日本の民主主義が機能しない原因 は、きっと複合的なものに違いないが、そのひとつとして最近考えているのは、地域社会の崩壊だ。
 空き家の増加が報じられるようになって久しいが、これといった解決策が講じられることもなく、一方では、ばかすか新しいマンションが新築されている。はたでみていて空恐ろしい気持ちになる。
 家が地域社会と繋がっていないのだ。
 たとえば、アメリカなら、地域社会に誰かが引っ越してきたとすると、ハウスウォーミングパーティを開いて近所の人たちを家に招く。日本でもついちょっと昔までは「向こう三軒両隣」なんて言葉が生きていた。言うまでもなくすでに死語。むしろ、地域社会と係わり合いを持ちたくないと思う人が多いのではないか。
 それは、逆に言えば、地域社会に依存しなくても生きていけるからだろう。人が帰属している社会が、地域と無関係なんだ。多分それは、急速な高度経済成長のさいに生じた、民族の大移動、知らない町の大学に、偏差値ごとに振り分けられて、知らない町の企業に就職して、その町に住まいするが、それは、その人が企業社会に帰属するためであって、地域社会に帰属するためではない。日本の社会は企業に結びついて、しかもそれが、オリンパス事件などにみられるように、多分にムラ社会的なのは、組合が企業を横断して存在しないために、労働者の社会が、企業に従属しているためだろうと思う。一般社会の正義に反していても、企業社会を守ろうとしてしまう。それこそ、ムラ社会だろう。普遍的なルールに背を向けて、狭い集団の利益を守ろうとしてしまうのは、普遍的なルールがリアルに感じられないからだろう。それもそばのはずなのは、「社会人になる」という言葉が、事実上、「就職する」と同義語で用いられるくらいに、日本人にとっての社会とは企業社会のことだから。
 例えば、待機児童の問題がある。子供を保育所に入れられないために、仕事を諦めなくてはならない女性が多いそうなのだが、これは、行政の問題であるには違いないけれど、そもそも、なぜ子供を保育所に預けなくてはならないかといえば、その家庭が核家族だからだ。「核家族」という言葉も死語なのだろうか。核家族は、夫婦と子供だけの家族のことで、この現象も、高度経済成長とともに生まれた。そもそも核家族は女性が家庭に入ることを前提にしている。でなければ誰が子供を育てるのか?。高度経済成長以前は、そうではなかった。
 桃太郎の童話を思い出してもよい。桃太郎が生まれたとき、家にはおじいさんとおばあさんしかいなかった。父母はどこにいたのか?。言うまでもなく、働いているのだ。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行っていた。洗濯も柴刈りも「生業」 ではなく「家事」である。父母はおそらく田畑で働いていたはずだ。そうでなければ生活がたちゆかない。
 父母が働いているあいだ、祖父母が子供の世話をする。それが、核家族以前の家族では当たり前だった。だから童話に出てくるのは、おじいさんとおばあさんなのである。保育所なんて存在しないし、存在する意味もない。なんなら、幼稚園も学校もいらない。
 そう言う農耕社会を捨てて、企業社会に移行する、その際、女性が家事と育児を担当することになった。それは、高度経済成長の暗黙のルールだった。それは、近代工業化が始まった明治以来徐々に浸透してきて、高度経済成長では一般化したルールだった。母性本能なんてのも、明治以降にでっち上げられたウソの一例なのがわかる。

 これは、渡辺幽香の《幼児図》(ここからお借りした)。渡辺幽香は、五姓田義松の妹である。別に幼児虐待の図ではない。農家では、両親が野良に出ている間、子供を臼に括り付けておくなんてことは普通だったろうと思う。
 高度経済成長の時代には、企業社会が地域社会の代わりをした。終身雇用で、年金も手当も手厚かった。高度経済成長下では、組合活動も必要なかった。ほっといても給料は上がった。企業のムラ社会に隷属する、いわゆる「社畜」である方が、ムラ社会意識から脱しきれていない日本人にとって楽でもあった。
 しかし、バブルが崩壊した後、企業は地域社会の代行を辞め、その後、何度か景気回復した後も、そこに復帰しようとしなかった。結果として、日本人は帰属する社会のすべてを失った。地域社会もない。労働者の連帯もない。ここから民主主義が生まれうるか?。すくなくとも、地域社会が存在しないのに、選挙区の区割りに意味があるか?。意味のない区割りから「八紘一宇」なんて妄言を吐く三原じゅん子なんかが当選したりする。悪夢である。
 二大政党制が実現していれば、地域社会が破綻していても、個人の政治意識を選挙に反映できたかもしれない。ただし、それは、政党が選挙公約を守ることが絶対条件である。地域社会が存在しない以上、政党と個人を結ぶのは公約以外にない。
 ところが、小沢一郎が、選挙に勝った一週間後に公約を破棄するし、マスコミは「マニフエストにこだわることはない」などと平気で公言するし、先日書いた通り、鳩山由紀夫は、とっとと逃げた。あの時点で、民主主義の可能性はなくなった。マニフエスト選挙で勝ったからには、是が非でも公約に拘らなければならないはずだった。田原総一郎が「政策に興味がない」と評した小沢一郎の小賢しさが、結局日本の民主主義を殺した。危機に際して、あのような愚物しか擁することができなかったことが、日本社会の衰退を示しているだろうと思う。
 「日本 家の列島」という展覧会があった。日本の奇抜な住宅を紹介して欧州を巡回した展覧会で好評を博したらしい。たぶん、企画した人に悪意はなかっただろう。日本の街を歩いて、ユニークな建築の家が多いことに気づいた写真家が、そんな家をコレクションしていったということだろう。しかし、当の日本人としてこの展覧会を見ると、日本の地域社会が破壊され尽くしている証拠にしか見えなった。一番ひどかったのは、もしかしたら、ポスターに使われていたかもしれない家で、四方を高い塀で完全に遮断した上で、その一角だけ、ちょうど豆腐の角をスプーンですくったみたいに塀を切っていた。そこから、小さな祠の脇に生えた桜が見えるからだそうだ。当時は書かなかったが、端っこのブログだから、正直に言わせてもらうと、これを建てた人の人格を疑った。
 今、青山に児童相談所を建てるのに反対運動が起こっているそうだが、日本の小さな成功者たちの意識はたぶんそんなものだろうと思う。そこに家はある。地域社会は存在しない。そのことに誰も危機を感じていない。そんな国になってしまっている。「日本、家の列島」って、そう考えるといみじくもよくできたタイトルだった。