『近代以前』続き

 江藤淳の『近代以前』によると、藤原惺窩と林羅山が、徳川時代の社会の倫理観、少なくとも武家社会を統べる規範を、朱子学を基礎にして作り上げたことになるだろう。江藤淳の書き方だと、この時の儒教と仏教の関係が、まるで、ルネッサンス期の古典古代哲学とキリスト教の関係のように読める。林羅山の仏教嫌いについて『羅山文集』から
「妙超弱齢にして法を顕密の家に問ふて心に快からず、すなはち元に入りて法を求めんと欲し、つひに博多に赴く。たまたま僧紹明が元より帰るにあふ。これにおいて参禅す。ときに超妻子あり、恩愛の欲を絶たんがために妻をして酒を買はしめ、ひとり戸を鎖してその二歳の児を殺し、これを串にして炙る。妻還りてこれを見て怪しむに及んで、すははち炙れる児をくらって以て飲む、妻熟視して大いに叫喚して出づ。超もまた出づ。これすなはち紫野の大燈国師なり。」(『羅山文集』巻五十六)
と言う文章を引いている。
 去年、南直哉の『超越と実存』を読んで、中国禅のいい加減さに唖然とした。南直哉も書いているが、猫を殺したり、草履を頭に乗せたり、舟から入水自殺したり、眉唾ものの話が多すぎる。だいたい、中国禅の祖と言われる達磨大師にしてからが、座禅しすぎて足が腐ったり、その弟子である慧可は、達磨に弟子入りするために自分の腕を切り落としてる。これに感動する人ってどんな人?。コンプライアンスの問題があるから口に出して言えないですけどね。
 ところが、日本にもいたんだね、そういう「ひじり」が。わが子を殺して、妻の前で炙って食うとは。
 つまり、江藤淳は、そういうことをあがめたてまつる宗教性を捨て去ろうとしたのが、徳川時代儒教政策だったと言ってると思う。
 しかし、浄土真宗門徒の私としては、ピンとこない。というのは、親鸞聖人がすでに「非僧非俗」といい、肉食妻帯をし、蓮如上人も「商いもせよ、猟すなどりもせよ」また「かたく会合の座中において、信心の沙汰をすべきものなり」と、日常生活を肯定し、また、信仰について議論することも推奨している。つまり、浄土真宗そのものが聖の否定であった。日本の禅についても同じことが言えると思う。禅修行なんてほぼ掃除と炊事じゃないだろうか?。
 そういう非宗教化はすでに鎌倉仏教で成し遂げられている。安土桃山時代に、キリスト教を受容しながらも、支配されなかったのは、すでに、非宗教化を経験していたからだと言えると思う。ハラキリ文化を作った儒教道徳よりも、禅や浄土真宗の方が開けて見えるがどうなんだろうか?。
 といっても、反論を試みているわけじゃない。「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らむ」と、死後についての議論を戒めた非宗教性を儒教が持っていたのは間違いない。
 しかし、それは殺す側の論理だと思う。君子の道は「死なんて知らないが、正しい生き方はこれだからこう生きろ」で済むかもしれない。でも、人はどうせすぐ死ぬのだ。下手すりゃ明日にも死ぬ。そういう人に向かって「朝たに道を聞けば夕べに死すとも可なり」というその道は何なのか?。死が圧倒的に現実的な庶民にとってそれはあまりに乱暴ではないだろうか。少なくとも「死なんか知らないけど、生きてる間は『義』を重んじろ」と言われて、大人しくそれに従っているのが人だと思うとしたら、浅薄な人間観だと思う。
 週刊文春の連載で出口治明が、中国では、支配層が儒教を学び、支配層からこぼれた知識人が老荘思想で現実逃避し、現世を諦めた被支配層は仏教にすがっていたのではないかと書いていた。ちょっとうろおぼえなので間違ってるかもしれない。
 「秩序は誰かがあたかも秩序があるかのように生きなければ回復されることがない。それが秩序の尸(かたしろ)となることである。」
また
「・・・道徳とはつねに人と人とのあいだのもの、他人と自分とのあいだを律する「公」のものでなくてはならない。だが、それならいったい「公」の真実とはなんだろうか?。それはたとえば、あたかも親子の恩愛というような秩序の最小単位があるかのように生きるということである。」と、江藤淳は書いているが、林羅山がそのような秩序の「かたしろ」たりえたかといえば、事実、そうなってはいないだろう。
 孔子その人はたしかにそうした「かたしろ」として生きただろう。だが、それでは、法然親鸞といった鎌倉仏教の宗祖がそうした「かたしろ」たりえていないかといえば、少なくとも林羅山よりはるかに、そうした秩序の道標になっている。
 「たとえば」にせよ「親子の恩愛」程度のことが、「秩序の最小単位」では、その秩序は脆すぎる。その程度の思想では人を動かすことはないと思う。
 こう書いていると、なんとなく「一般意志」論に接近していくように思う。そのもたらした功罪について比較してみるのも意味があるかもしれない。
 江藤淳は、お伊勢参りの熱狂についてこう書いている。
「私はこういう和藤内の姿に、日本人の不幸の投影を見ないわけにいかない。それは、自らの感情の充足と、"普遍的"原理の受容とのあいだにいつも背馳するものを感じつづけなければならなかった民族の不幸である。あるいは中国文明という巨大な自律した文明の周辺にあって、つねにそれとの対比の上で自分を眺めなければならなかった民族の感情生活に生じたひとつの緊張である。外圧が加わったとき、この緊張は極点に達し、逆に現実には決して存在し得なかった幻影の国家ーーー自足した、感情生活の充足がそのまま“普遍的”な原理の確認になるような国家を夢みさせた。そして、現実世界を律する朱子学的秩序の枠をぬけ出た江戸期の日本人がこの幻影の国家を追い求めて行くと、彼らは「伊勢」に出あったのである。」