江藤淳の『閉ざされた言語空間』とリベラルの源流について

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

 江藤淳の『閉ざされた言語空間』は、予想よりずっと面白かった。一次資料に取り組んだ成果だからだ。そこに本物の鉱脈がある限り、やはりそれは何かなのである。
 「予想」というのは、しかし、ここにいたるまでにもうすでに江藤淳自身の『成熟と喪失』も読み、その文庫版の上野千鶴子のあとがきも読み、加藤典洋の『アメリカの影』も読み、また、『江藤淳コレクション』で、この『閉ざされた言語空間』が期待されたような反響をえられなかったについての江藤淳自身の文章も読みしているので、なにがしかの「予想」は自然に出来上がってしまう。
 とくに、加藤典洋が『アメリカの影』に書いている

「江藤は 、日本国家と日本国民 (日本人 )の間の差異を無視するかたちで 、単に 「日本 」が敗戦と占領によって深く傷つき 、その自己同一性の根拠を喪失したと語ってきた 。」

「江藤の論理は、この自己同一性の考え方に関して何より個人のアイデンティティと共同性のアイデンティティの間にひそむ緊張の契機を見落している。」

という指摘を正しいと思う。

 また、江藤淳吉本隆明の対談でも、この『閉ざされた言語空間』が話題になっていて、江藤淳より少し年上の吉本隆明は、戦争が終わったときの「解放感」について語るのに対し、江藤淳は、そういった「解放感」は、あとから上書きされた感情「かもしれない」と主張する。これは、江藤淳伊東静雄について書いたエッセーでも、敗戦当時、日本人は悲しむことも許されず喜ばなければならなかったと書いていたこととも一致する。
 私が当時の日本人について何か知ってるかと言われると困るが、解放感があったという吉本隆明と、米軍に強要されて喜ばなければならなかったという江藤淳のどちらがほんとうらしく感じるかと言われると、吉本隆明の方である。
 それを「てめえがアメリカ製の『閉ざされた言語空間』のなかで生息してるからだよ!」と言われると苦笑するしかないが、小熊英二の『民主と愛国』にあったと思うが、敗戦直後の軍人の書いたものにも、戦争が終わったとたんに、自分たちに向けられる国民の憎しみをひしひしと感じたという感想があった。
 私としては、そりゃそうだろうと思うのだ。いまでも、ネズミ捕りに引っかかったりしたら、ちっ、とか思うわけだから、あたまわるいくせに散々偉そうにしやがった挙句に負けやがってよ、ってなりゃさ、腹ぐらい切れよ、ってなると思うのだ。江藤淳に、発言通り、戦争からの「解放感」がなかったとしたら、原因のひとつは、敗戦時に兵役の年齢に達していなかったことと、もうひとつは、山の手のお坊ちゃんだったことがあるのだろうと思う。少なくとも、庶民と言える階層ではなかった。

 それより何より致命的なのは、「言語空間」という概念が曖昧なのである。米軍の占領と検閲によって日本語の「言語空間」が閉ざされたんだというからには、「言語空間」の定義はもっと厳密であってほしい。江藤淳は「言語空間」というものが、あたかも、定説であるかのように議論を進めている。『近代以前』で藤原惺窩や林羅山について書いていたように、そんなものがあるかのようにふるまっていれば、あることになると考えていたかのよう。これは善意に解釈しても「エリート意識」なのではないか。非常に優秀な人だったから仕方ないかもしれないが、それはやはり江藤淳の限界というべきではないかと思う。

 そういうわけで、この本に関しては、読む前からある程度の欠点を予備知識として読み始めたわけだったが、これはしかし、米軍が日本を占領するにあたってどのように検閲を準備し、実行したかに関する、唯一無二のすぐれた研究報告にはちがいない。「閉ざされた言語空間」と言う論理の道筋は見えにくいが、その予断めいた結論をひとまずおいて、占領下の検閲とそれが日本の報道のあり方にどんな影響を及ぼしたかの研究としてこれを見れば、これはこの仕事ができる人は江藤淳をおいていなかったかもと思える。

 重要なポイントのひとつは、占領軍が、新聞、ラジオ、出版、私信にまで、徹底的に検閲を行っていながら、それを一般大衆の目から隠した、そのことによって、実際に検閲を受ける報道機関と占領軍とのあいだに、共犯意識ともいうべき価値観の共有が成立したことだ。真実を民衆に伝えることが報道の使命であるはずだが(こう書いていてなにかしら気恥ずかしいのは何故だろうか)、「解放」の名の下で、その実、「検閲」をしている占領軍の価値観へと世論を誘導することが報道の使命にすり替わった。
 そのようにして導かれるべき「占領軍の価値観」が正しい価値観であるならば、一般大衆に知らされていないその価値観を知りうる「特権」を手にした戦後の報道機関は民主主義の先覚者であり、知的エリートということなのである。今の日本の新聞社や放送媒体に、報道の使命よりもそうした「特権意識」「エリート意識」が強く感じられるとしたら、その根はここにある。
 特に愕然としたのは、CI&E(民間情報教育局)が実行した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」。段階的に徹底的に行われた情報宣伝活動であるが、この事細かな箇条書きを読むと(事細かすぎて書いていられない。興味のある人は直接書籍に当たってほしい)、朝日新聞の社是じゃないのかと思うほどだ。つまり、日本人が今、毀誉褒貶ともに「リベラル」と称しているものはすなわちこれなのである。
 言語空間が閉ざされたかどうかは知らないが、戦後の日本の報道の価値観は、確かにこのときに鋳型にはめられ、その鋳型から抜け出せないでいるのは間違いないようだ。
 慰安婦に関する明白な誤報を、朝日新聞が、なぜ30年余も放置したかが分かった気がする。「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の細則にただせば、その誤報は正解だったからである。
 結論めいたことを言えば、「閉ざされた言語空間」という、何かしらあいまいな視点を外して、一次資料の研究としてこの本を読めば、これは非常に重要な著作である。そして、その問題は、現代にまでも、たとえばスノーデン事件にまでもつながってくるものだと思う。