福田和也の『江藤淳という人』を読みました

江藤淳という人

江藤淳という人

 「江藤淳氏と文学の悪」の章とそれをめぐるさまざまなことについての文章が特に面白かった。
 先に、福田和也が編んだ『江藤淳コレクション』で、「小林秀雄と私」を読んでいるので、ある程度は、福田和也の目で江藤淳を見ているのかもしれないと思わぬでもない。
 『成熟と喪失』の文庫版あとがきで、上野千鶴子も「治者」という自己規定についてふれていたけれど、福田和也の見方の方が、もっと深く入り込んでいると思った。
 上野千鶴子は«、" 「『治者』の不幸」を引き受けようという男の悲壮な覚悟は、そこではひとりよがりの喜劇に転落する" と書いていた。しかし、それでもそれを引き受けざるえない宿命はやはりありうる。
 江藤淳福田和也のふたりで鎌倉で食事したあと、店に頼んでいたハイヤーがなかなか来ない。そういう場合、いろいろな態度がとりうると思う。店のドアを開けて「来ないよ」とまた呼んでもらうとか。でも、江藤淳の場合は、店には何も言わず、駅まで歩いて江ノ電で帰ってしまう。
 それは、原稿を、いつも、一字の直しもない、完全な原稿で入稿していた江藤淳のとるべき態度として、さもありなんと思う。
 三島由紀夫が自決したときの江藤淳小林秀雄との対話は、たしかに、小林秀雄についてもう一度考えさせられた。
 いま、東京都美術館で「奇想の系譜」という展覧会がやっている、前後期にわかれているので、展示替えの後、また行こうと思っているが、その「系譜」のなかに、なぜか白隠もまぜられている。白隠は、奇想というまえに禅僧だから、禅宗じたいがすでに奇想といえば奇想なのだ。
 禅僧の絵では、仙がいの明るさが好きだが、白隠のはったりは嫌い。なかでも今回の展示では、≪大燈国師像≫があった。江藤淳の『近代以前』で、恩愛の念を断ち切るためにわが子を殺して妻の目の前で焼いて食ったと書かれている、あの大燈国師。いかにも白隠が画題に選びそう。
 浄土真宗門徒は、とっくにこういう聖性を止揚している。止揚であって否定しているのではないので、ここに立ち戻ることはない。否定し拒否しているだけなら、ここに戻ることがあるかもしれない。林羅山の大燈国師批判はその意味では不徹底なんだと思う。
 たしかに、江藤淳はニヒリストではない。そんな斜に構えたよわよわしい批評家ではない。にもかかわらず「信」というしかない何かを欠いているという批判は、江藤淳のどこかを突いたのかもしれない。