『ROMA/ローマ』がイオンシネマでやってたので観た

 この映画は、ネットフリックスのアプリも入れて、観ようと思いながら、タブレットの小さい画面で観るのはどうも気が進まないなぁと思ってたところ、突然イオンシネマで上映し始めたので観に行った。
 映画のタイトルになっている「ROMA」はメキシコシティー近郊のローマ地区(コロニアル・ローマ)のことだそうだ。私は、しかし、観終わった後、「ROMA」を「ロマ」と勘違いした。『ロマの洞窟フラメンコ』のあの「ロマ」、主人公のクレオという家政婦が先住民族だったからで、「ロマ」は、ロシアでは「ツィガーニ」と呼ばれていて、ロシアで同船したツィガーニの子の風貌をちょっと思い出したのだ。
 考えてみれば、メキシコの先住民族が、もし「ロマ」と遠い昔に遺伝子的な関係があったとしても、かれらを「ロマ」とは呼ばないだろう。でも、映画のラストに「ROMA」と白い文字が浮かび上がったとき、反射的に「ロマだ」と思ってしまった。それくらい、クレオを演じたヤリッツァ・アパリシオが素晴らしかった。

 映画の舞台は1970〜71年のメキシコ。オリンピックが1968年に開催され、たぶん、メキシコが未来に希望を持っていた、一番明るかったころなのではないか。アレハンドロ・キュアロン監督の自伝的要素もあるというし、そういうノスタルジーが、映画の底の方にずっと流れているように思う。メキシコについて何も知らないわたしですら、なにかしら懐かしい気持ちになった。それは、テレビ、映画館、クルマ、そして、なにより、人の寛容さかもしれない。

 そのノスタルジーを映像の側から支えているのは、驚くほどダイナミックレンジの広いモノクロームの映像だ。写真をやっている人は分かると思うが、私たちが普段撮っているような写真は、私たちの肉眼よりずっと明暗差に弱く、明るいところに露出を合わせると、暗いところはシルエットにつぶれて、何も見えなくなってしまう。逆に、暗いところに露出を合わせると、明るいところは、白飛びしてしまい、何も写らない。ところが、ポスターのビジュアルイメージにも使われている、クライマックスの海辺のシーンは、画面に太陽が写りこんでいるのに、逆光の中を沖へ沖へと進んでいく主人公が全くつぶれていない。

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 しかも、被写界深度がとてつもなく深い。飛行機が飛んでいるシーンが何度も出てくるが、おそらく高度何千メートルを飛んでいくその飛行機と、手前でしゃべっている人物の両方にピントが合っている。これは、人間の肉眼を超えている。
 これがモノクロームではなく、色がついていたら、かなりうるさく感じられたかもしれないが、色が洗い流されて美しく感じられるのは、その被写界深度とダイナミックレンジの広さによる画面の明晰さのためなんだろうと思う。まるで眠らずに夢を見ているような、というのは、色付きの夢をどのくらいの人が見るものか知らないが、たいていの人のたいていの夢は色がなくて、多分、こんな映像を見ているのだ。

 4K、8Kと映像技術が発達する一方で、モノクロームの映画が作られることも多くなった。たとえば、アカデミー賞を席巻した『アーティスト』、ホン・サンス監督の『それから』、ノア・バームバックの『フランシス・ハ』、園子温監督の『ひそひそ星』、アレクサンダー・ペイン監督の『ネブラスカ』など、ほかには、みうらじゅん原作、脚本、安斎肇監督の『変態だ』もそうだけど、このなかで、『アーティスト』と『フランシス・ハ』は観ていないので何とも言えないが、今回の『ROMA/ローマ』はとびぬけて美しいと思う。

 もちろん、そのノスタルジーを批判することもできるとは思う。NAFTAの失敗、富の再分配の失敗、などについて話し始めれば、素人でももちろん、何がしかのことは言えるだろう。しかし、この映画が、人の心を温かくもし、明るくもするのはほんとうで、そこに小難しい理論とか思想は言いたくない気がする。

 この映画のタイトルのROMAには、やはりもうひとつのローマ、五賢帝が統治したローマ帝国のパクスロマーナがイメージされているのではないかと思う。『ハドリアヌス帝の回想』を書いたマルグリット・ユルスナールが、フロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句、
キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった」
という、その言葉を、わたしは第二次大戦からの復興期にあたるこの時代に当てはめてみたい気がいつもする。