『バーニング 劇場版』のラストについて

 イ・チャンドン監督が、村上春樹の短編「納屋を焼く」を大胆に解釈しなおしたこの映画は、是枝裕和監督の『万引き家族』とカンヌでパルムドールを争ったそうだ。実際、小気味よい歩調にぐいぐい引っぱられていくのだが、評価が分かれるのはラスト数分かと思う。個人的には、それまでひたすら広がっていった世界が、ラストで急にしぼんだかのように思えた。あのラスト数分がなくても成立していると思うし、なぜ、ああならなければならなかったのかは、むしろ、興味深い。
 主要な登場人物はこの三人
f:id:knockeye:20190315211401j:plain

 一番手前にいるのがジョンス、兵役から帰ったあと、小説家を志しているが、まだ何も書いていない。父親が傷害事件を起こして収監されたため、田舎の家に帰ろうとしていると、町で偶然、真ん中の女の子、幼馴染のヘミに声を掛けられ、ヘミがアフリカを旅行しているあいだ、飼い猫の餌を替えてほしいと頼まれる。
 帰国するヘミを空港に出迎えると、一番奥の男、ベンという同行者がいた。ベンは江南にくらす富裕層だが、仕事を聞かれると「遊んでますよ、近頃は、遊びと仕事にちがいはありませんからね」なんていう。
 「納屋を焼く」のはベンの方だ。この写真の背景はジョンスの田舎の家で、ここで「納屋を焼く」話をしている。大麻でハイになったヘミは、沈んでいく夕日を浴びながら肌を晒して、アフリカで憶えた飢餓のダンスを踊る。美しいシーンだ。でも、ジョンスは、ヘミに「男の前で裸になるのは娼婦だ」と非難する。このあたりから、村上春樹の原作から乖離していく。
 そんな古い道徳を、村上春樹の主人公が口にできるはずがない。この二人の「納屋を焼く」についての対立は、行為するものと傍観するものの対立だったはずで、道徳にまつわるものではなかった。古い道徳が無力であるについて、このふたりはともに同意しているはずだが、だからこそ行為するものと、にもかかわらず行為しない、行為そのものについてすら懐疑的になっているものの対立だったはずである。だとすれば、ジョンスが古い道徳を口にしたとき、構造が歪んでしまっている。
 このあと、ヘミは姿を消す。これは原作どおりだが、原作が不在の不確かさに耐える強度を持ち続けるのに対して、映画の方は、ジョンスが、すでに人が存在をゆだねることができなくなった、それこそ、心の飢餓を癒せない道徳にヘミを閉じ込めようとした以上、ヘミが姿を消すのは、実にあたりまえすぎて、不在の緊張感が保てない。
 そして、ジョンスはベンに対するストーカーまがいの行為に走ることになる。傍観者でしかありえなかったはずのジョンスが行為者に転換してしまっている。このあたりから映画は失速し始め、ラスト数分では、ジョンスはただの変質者にしかみえない。それは、上に書いたようなキャラクターの破たんがあったためだろう。
 ベンが「近々この辺りの納屋を(この映画ではビニールハウス)焼くつもりで、すでに目星もつけてある」と言うのを聞いたジョンスは、それから、近くのビニールハウスを巡回するようになる。阻止しようとしているのではない。何のためにそうするのかジョンスは自分でも分かっていない。
 消息を絶ったヘミについてベンに尋ねるついでに納屋を焼いたかどうか訊くと、ベンはすでに焼いたと答える。そんなはずはないと言うジョンスに「見落としたんでしょう」と。ジョンスは、実は傍観者ですらなかった。
 なので、この映画のラストの凶行は、映画のテーマをそこだけありふれた階級闘争に変えてしまっている。ラストから振り返ると、ジョンスの父が暴行事件で収監されている、という、原作にはない伏線はあったが、それは、ラストから振り返るから伏線になるだけで、あのラストのために父親の事件が用意されたのだとすると、この映画のテーマは、人は遺伝から逃れられないという、古い道徳どころか、19世紀の世界観みたいなことになってしまう。
 ヘミはアフリカの飢餓のダンスについて、2種類の飢餓があると語っていたはず。あのラストでは、心の飢餓のテーマはまったく置き去りにされている。
 あのラスト以外はすごく良かったのに、あそこで、実際に目の前で風船がしぼむように感じた。もちろん、ラストだけで映画の価値は決まらないから、この映画はよい映画だとホントにおもうけど、ただ、不思議なのだ。イ・チャンドン監督があのラストにしてしまったことが不思議。