『ウィーアーリトルゾンビーズ』観ました

 長久允監督の初長編映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』が、興行的に成功するかどうか今の時点では未知数だろうけれど(そして、たぶんしないだろうけれど)、この映画が、ある「出現」であることは間違いないと思う。何かが現れたのである。
 『ゴジラ』のシーンにたとえるならば、まだ東京湾の沖合に背びれが見えただけで、全貌はわからないのだけれど、しかし、その片鱗だけでも、それを見る者をゆさぶる何かなのである。
 舞台挨拶の動画を見ると、池松壮太は長久允を「天才」と呼んでいる。
 ちなみに、リトルゾンビーズのボーカルであるヒカリを演じた二宮慶多は、是枝裕和監督の『そして父になる』の慶多くんです。
 音楽ナタリーの西川貴教との対談で長久允はリトルゾンビーズの4人をオーディションで選ぶときに、台詞をテキストとして届けたいので、台詞に芝居を載せない子を選んだそうだ。結果として、ほぼシロウトの子が選ばれることになったが、二宮慶多だけは、その監督の要求に演技力でこたえられるプロだったっていうのが印象的。
 しかし、シロウトほど怖いものはなくて、それでも「おいしい」のは他の3人だった気がする。慶多くんがほかの3人をリードしたのかもしれないし、慶多くんがほかの3人に刺激を受けていたのかもしれない。わからないけど、とにかく、結果として、よい化学反応が起きて、いいバンドになっていた。
 もちろん、音は、あとでかぶせているんだろうけれど、実際に楽器を練習して、現場では彼らがホントに演奏していると言っていた。ちなみにこの映画に使われている音楽は90曲あるそうだ。三木聡の『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』の比ではない。もうミュージカルといってもいいくらい。ちなみに、三木聡のあの映画もサイコーだったんだが、興行的にはふるわなかった。吉岡里帆阿部サダヲが唄うあいみょんの主題歌聴きたないの?。
 台詞をテキストとして届けるということは、台詞に言葉以上の意味を載せないという意味だろう。たとえば、「雪が降ってきたね」なんてセリフに人生をしみじみ感じさせたりは、断じてしないということである。
 そのかわり、映像の語り口は職業として映像の制作をしている監督だけに、無尽蔵に豊富。でも、それは、今、私たちを取り巻く世界にあふれてありふれている映像の量を考えれば、通常の映画が、ストイックすぎる、というより、むしろ、犬儒的にすぎるといえる。映画が動画のひとつではなく、総合芸術であるなら、世界にあふれているイメージのすべてを使っていいはずだった。
 舞台挨拶で工藤夕貴が話していたが、撮影中、ふつうにスタッフが持っているiPhoneで撮った動画が使われていたりするんだそうだ。だから、本番かどうか迷うことがあったそうだ。
 前作の短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』は、サンダンス映画祭のショートフィルム部門でグランプリを獲ったが、この映画もサンダンスで審査員特別賞オリジナリティ賞を受賞。
 サンダンス映画祭は、ほかの映画祭と比べてちょっと特別なのは、ロバート・レッドフォードがたちあげた、インディペンデント映画対象の映画祭で、映画監督の登竜門の感がある。だから、サンダンスで受賞したってなると、「おぉっ!」となるところなんだが、短編といえどグランプリを獲得したのに、その後は「オレ、無視されてんのかな?」という時期が続いたと、これは池松壮亮との対談に書いてあった。あとでリンク張っておきます。
 その他、ベルリン国際映画祭で、スペシャルメンション、ブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭で二宮慶多が最優秀男優賞を受賞している。この「ネオジャパニーズ(とサンダンスでいわれたらしい)」の出現を世界が好意的に受けとめているらしい。
 この監督は、音へのこだわりとともに、もうひとつなるほどと思ったのは、物語を紡いでいくというより、コラージュを作っていく感覚で作っているということ(これは、原田ちあきとの対談で。あとでリンクを張っておきます)。さきほどの、台詞のテキストとしての重視とあわせて、映画が前後のつながりだけでなく、立体的になる。
 池松壮太が、最初のオファーの時に渡されたシナリオはとてつもなく長かったそうだから、多分、それを削っていった結果としても、回収できていない伏線は山ほどありそう。ちょい役が超豪華なのも、そのせいなのかもしれない。永瀬正敏佐々木蔵之介菊地凛子・・・。キャストをながめたら驚くと思う。『シン・ゴジラ』かよ!ってくらい、豪華キャスト。黒田大輔なんて三役くらいで出てましたが。わたしは、橋口亮輔監督の『恋人たち』に出てたあの人たちが出てくるといまでもうれしくなる。
 
 しかし、これは前にも書いたかもしれないが、川本三郎が、トゥルーマンカポーティの解説か何かで、日本とアメリカの小説に共通しているのは「少年性」だと書いていた。 
 最近、村上春樹が冴えない。村上春樹自身がどこかで書いていたが、そんなに長いスパンで書き続けられる作家の方が少ないわけだから、書けない時期があったとして、貶められるいわれはないと思う。が、今、村上春樹が書けなくなっているのは、彼もまた少年性の作家として書いて来た作家だからではなかったかとも思っている。
 長久允の才能と手腕に舌を巻きながらも、作品が少年の世界を出ないことに危うさを感じないではない。たとえば、この映画をウエス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』と比べてみると、同じように少年の世界を扱っていても、そこに同時に大人の視点も描かれている。しかし、この映画は、リトルゾンビーズの親たち全員が死んだところから始まる。親が死ななければ、子供たちの冒険が始まらないほど、親の抑圧が強い社会であるといえるのかもしれない。
 そして、もうひとつは、この子たちは結局、「フツー」に戻っていこうとしていないだろうか?。根深い「フツー」信仰が、冒険をあきらめさえすれば、そこに「フツー」が待っていてくれると無意識に信じられていないか?。
 「フツー信仰」の社会では、大人になることはフツーになることで、大人の世界にはフツーしかないと信じられていて、大人に対する子供の関係の反映として、フツーに対する価値としてのカルチャーは子供の時代にしか存在しないと信じられているとしたら、その社会からは、少年の物語以外のものは生み出せないことになる。
 これはしかし、フツー幻想を大人が維持できていた時代に可能であった特殊な事情であって、何がフツーかわからなくなっている時代には、少年は冒険をやめても、戻るべきフツーを持てない。
 すると、カルチャーが、どんなカルチャーでも、大人になるまでのモラトリアムにだけしか存在しないとしたら、その社会にはカルチャーの担い手がいないということになる。
 具体的に物語についていえば、それは「人称」の問題だ。語り口が多彩であるにもかかわらず、結局、この映画はヒカリの一人称の外に出ない。ラストシーンに現れているとおり、これは、ヒカリの意識の上に築かれた物語なのである。
 この世界が成熟しうるかに興味がある。ありきたりにフツーにならず、いいかえれば、フツー信仰を打ち破って、大人のカルチャーを描きうるかに興味がある。

natalie.mu

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