「戦後リベラル」と「オールドリベラリスト」について

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という記事があった。
 この国の最近の一部の動きには、「新しい憲法をつくろう」とかいいつつ、そのなかみを聞いてみると、「教育勅語の復活」とか、どこが新しいんだ?!、とかいう、あほらしすぎて暗澹とした気分になる言説もあるのだけれど、そういうこととは別に、明治憲法と、その憲法下での政治体制がどのようなものであったかを考えてみるのは、正しい態度だと思う。

 このブログにも書いたけど、最近、福田和也の『昭和天皇』、半藤一利の『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』、鬼頭春樹の『相沢事件』を読んで、明治憲法下の政治体制が、国際情勢の荒波にもまれつつ、かなり、柔軟に運営されてきた実態の片鱗をうかがい知ることができた。

 大日本帝国憲法明治憲法が施行されたのは明治23年、大正天皇は病弱だったため、大正10年には、当時、まだ二十歳だった皇太子、後の昭和天皇が摂政になった。
 いうまでもなく、明治天皇は、勤皇の志士たちとともに明治維新を成し遂げた、革命の象徴であって、事実上、憲法にしばられる存在でなかった。昭和天皇の摂政就任当時は、まだ憲法施行からわずか30年ほど。その憲法下での天皇のありかたがどうあるべきかはまだはっきりとした像が見えていなくて当然だろう。江藤淳は、明治時代には天皇制はなかったと言っている。
 少し話がそれるが、今の上皇、平成天皇の言動を見ていて、わたしには、この人が、日本のどの政治勢力よりもリベラルに見えて不思議だったのだが、考えてみると、皇太子時代にイギリスに遊学し、立憲君主てしての天皇の在り方を模索し続けた昭和天皇が、すでにリベラルだったと思う。
 「オールドリベラリスト」という言葉がある。これは、戦後の政治学者や思想家が戦前の自由主義者たちを揶揄した蔑称だったが、今ふりかえると、はたして、戦後の「リベラル」と戦前の「オールドリベラリスト」とどちらがほんとにリベラルだったか、なんとなくもうすぐにでも歴史の判定が下るような気もする。美濃部達吉の「天皇機関説」を支持していた昭和天皇は、「オールドリベラリスト」と言われる人たちと気脈を通じていたと思う。それは、吉田健一二・二六事件について書いた文章からもわかる。

 上にリンクした記事にあるように「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第4条)とある以上、天皇憲法に定められた機関であるのは当たり前のことで、天皇の権限も憲法に規定されていたのである。現に、天皇機関説は実際、当時、定説でさえあった。

 じゃあ、なぜ、あんなバカなことになったのか。バカな連中に国を蹂躙されることになったのか、というと、昭和5年(1930年)、ロンドン軍縮会議で、日本に不利な軍縮を受け入れるかどうかをめぐる政争がその発端となった。

 明治憲法の第11条は「天皇は陸海軍を統帥す」である。そして、第12条は「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」となっている。

 これを根拠に、天皇が定むべき陸海軍の編制と常備兵額を、かってに軍縮したのがけしからんと言いだしたバカがいて、このバカがその後15年で国土を灰燼に帰さしめた。天皇が定むといっても、天皇自身がそろばん片手に帳簿を付けるわけでないのは当然じゃないか。当時、軍事参議官だった岡田啓介は「軍令部が反対すれば、すべての国際条約が出来ないようにする主張」だと言ったそうだ。岡田啓介は、昭和11年、二二六事件の被害者になる。

 このくそみたいな議論で、登場したのが、司馬遼太郎が「魔法の杖」と呼んだ「統帥権干犯」だった。そして、鬼頭春樹の『相沢事件』によると、この「統帥権干犯」というキャッチコピーを発明したのは、北一輝だった。

 北一輝の門下生、寺田稲次郎の証言では「どうも政府は米国案に屈服する恐れが充分にある、この上はただの反対では通らぬ。北君あたりの応援をよろしく頼む」という意味の伝言が、昭和6年の春ごろ軍部から伝えられた。
 
 北一輝の回顧では、こうなっている。

「オッカチャンがねぇ、追い込め追い込め、柵をしろって書いてありますよ、ホーラ、ホラホラ、コゲン書いて・・・・・コゲな字ですばいっていったんだよ。それから一晩中考え抜いたんですよ。ハハア大義名分論だな。憲法機関は憲法違反で、それも大権事項に限るなと気が付いたんですよ」(寺田稲次郎「革命児・北一輝の逆手戦法」)

 「オッカチャン」といっているは、北一輝の妻のすず子のことで、熱心な法華信者であった北一輝が読経すると、その横ですず子は、何かが憑依してうわごとのようなことを口走る。それを北一輝が書き留める、これを「霊告」と呼んでいたそうだ。

 すず子の「霊告」によって、暴走する軍部のバカのひとつおぼえ「統帥権干犯」を発明した北一輝はまた
「クラゲばっかりいじくってる奴が悪いんだ。ロンドン条約がこじれるのも、天皇ノロノロしているから浜口に勝手にされるんだ」
と、吐き捨てるように云ったと寺田稲次郎は述懐している。(須山幸雄『西田悦』)。
 
 北一輝はのちに二・二六事件の首魁として処刑される。天皇を「のろのろしてクラゲばっかりいじくってる奴」と呼ぶ男の「霊告」につきしたがって、高橋是清を切り刻んだ連中が、昭和維新憂国の志士であった。

 ともかく、軍縮をめぐる政争の具として登場した「統帥権干犯」というキャッチコピーが、美濃部達吉のまっとうな憲法論を排撃する動きにつながり、大日本帝国憲法天皇は、立憲君主から、神がかった存在に変質していくわけである。

 しかし、個人的にいちばん暗い気持ちになるのは、五・一五事件の時も、二・二六事件のときも、一般国民はクーデターの青年将校たちを支持したことである。保坂正康と半藤一利の『そして、メディアは日本を戦争に導いた』の記述によると、五・一五事件で暗殺された直後の犬養家は、近所の米屋が米を売ってくれなかったそうだ。犯人の将校の家族ではないんですよ。被害者の遺族に米を売らない。そんな国民が、戦後には「天皇の戦争責任」などということを言って、それで「リベラル」のつもりになっている。私には「無節操」としか思えない。
 
 さきごろ、韓国の国会議長が昭和天皇を「戦争犯罪の主犯」と呼んだわけだが、東京裁判の被告にすらなっていない昭和天皇を戦犯呼ばわりすることは、それこそ「歴史修正主義」ではないのか?。慰安婦についても徴用工についても、韓国人は自分たちに歴史を決める権利があると思っているようである。

 しかし、それは余談である。わたしが、肝に銘じたいことは、憲法がどうあれ、国体がどうあれ、制度がどうあれ、民度の低い国民は、結局、身を亡ぼすということだ。
 五・一五事件のときも、二・二六事件のときも、マスコミも庶民も、青年将校の側についた。青年将校たちを厳罰に処した昭和天皇の側についたのは「オールドリベラリスト」と言われる人たちだった。そして、戦後になると、一転して「天皇の戦争責任」などと叫ぶことが、「リベラル」なことになった。

 昭和天皇を曲庇しようというのではない。ただ、あまりに無節操すぎる。なんとなく、ムードで「リベラル」を叫んでいる人は、またすぐに別の「魔法の杖」のもとに参集するのではないかと危惧するだけである。

実録 相沢事件 ---二・二六への導火線

実録 相沢事件 ---二・二六への導火線