『Girl/ガール』観ましたです

 ちょっと話題になっているかもしれない『Girl/ガール』というベルギーの映画。
 ノラ・モンセクールという、実在のトランスジェンダーバレリーナをモデルにしている。
 主人公のララを演じているビクトール・ポスターは、ロイヤル・バレエ・スクールのトップダンサーだが、彼自身は、シスジェンダー(という言葉自体今初めて知ったんだけど、「生まれた時の性と、自認している性が一致している人のこと」だそう)なので、ふだんはトゥーシューズを履かないわけである。
 だから、こんかいのトゥーシューズを履いてのダンスは、物語とリンクして鬼気迫るものがあった。
 バレエが女性の肉体に加えるトゥシューズっていう制約と、男性の二次性徴を抑えて人為的に女性的二次性徴を起こそうとするホルモン治療が、主人公の肉体の中で同時進行する。
 バレエのためには骨を強くしなければならないのに、ホルモン治療はむしろ骨を細くする、その矛盾は、本来、この世のものならぬ妖精や精霊を人間が表現しようとするバレエの絶望的な矛盾と重なり合う。トランスジェンダーの主人公が自分の肉体を追い込んでいく感じが、バレエをテーマに選んだことですごく説得力のある表現になっていた。
 ルーカス・ドン監督によると、ダンスシーンは、カメラマンの動きも同時に振り付けて臨んだそうだ。ダンスの映画は多いけれど、コレオグラフィの段階からカメラを参加させてるのは新しいんじゃないかと思った。映画的ダンスの表現として発明なのかなぁ。すごくよかった。
 トランスジェンダーの抱く、自分の肉体に対する違和感、子供の時から自分は女だと思ってたのに、成長するにつれて、だんだんカラダだけが男になっていくのは、想像してみると、たしかにわかる気がするが、しかし、深く考えてみると、実際のところはまったくわからない。
 というのは、自分は、おとこの体で生まれてきて、自分を男性だと思って生きてきて、そのまま死ぬのだと思うが、それは、男の体で生まれてきたからだと思ってたのだ。男の体に生まれてきた、から、自分をお男だと思っているのだと思ってきたのだが、トランスジェンダーの存在は、それはそうじゃないんだと教えてくれるわけで、自分の場合は、たまたま運よく男の脳に男の体のセットで生まれてきたにすぎないということになる。
 たぶん、トランスジェンダーという人たちは昔からいたんだろう。性転換の技術がなかった昔は、女の脳に男の体、あるいは、男の脳に女の体っていう状況をそのまま受け入れるしかなかったわけで、それはそれでよかったんじゃないだろうか。
 いまは、なまじ、性転換の技術が発達したために、脳の性別にカラダをあわせようとするが、しかし、それは、体の性別に脳の性別を合わせようとする矯正施設と、実のところどう違うんだろうかという気もする。
 この映画の中でも、カウンセラーが主人公のララに「君は今のままでも女の子だ」という言葉を、ララは受け入れようとしない。
 でも、それは、女の脳に男の体というトランスジェンダーの存在を否定しているということでもある。女でも、男でもない、トランスジェンダーとしての自己を受け入れられない、自己否定であり、ララの周囲の人たちが、トランスジェンダーである彼女のありかたを受け入れていることと鋭く矛盾している。
 女の子たちとのくだけた集まりがあって、一人の女の子に「見せてよ」と言われる。ララはいやがる。「でも、いつもシャワー室で、あなたは私たちのを見てるでしょ。じゃあ、あなたのも見せて」と言われると、ララはその論理に抵抗できない。
 それは、圧倒的多数派が圧倒的少数派を受け入れているという意識であるにはちがいない。いやがることをやらせるという意味ではハラスメントには違いないけど、そこには、好奇心があるだけで悪意はない。少数派が多数派から好奇の目で見られることは、否定的な感情でとらえられるとは限らない。たとえば、ひとりだけおっぱいが大きいとか、髪が黒いとか、目が青いとか、ハーフだとか。 
 すべてのコンプレックスは両義的なものである。問題は、ララの側にあるので、女の子の側にはない。だから、つらいのだが、しかし、そのつらさはひとえにララの内面の問題なのだ。
 それから、この映画には、ララの母親が出てこない。その一方で、ちいさな弟がいる。ララ自身が家族の中で母親役でもある。この点が、この映画のプロットをシンプルに力強くしている。ようするに、父と娘の物語だからこそ、ララが女に見えるので、ここにララの母親が登場すれば、そこに、母と息子の物語、かすくなくとも、母と娘の物語が絡んでくる。
 監督インタビューでは

この映画は、父親がララを受け入れている時点から始まります。そうすることによって、ララの内的格闘に焦点を絞ることができると思いました。母親が不在なのは、ララが3人家族のなかで女性の位置を占めているほうが、ドラマ的に面白くなるのではと考えたからです。また、父と子の関係に集中できるとも思いました。もし母親がいれば、父と子、父と母、母と子という3つの関係を扱わねばなりません。

と説明している。
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 しかし、心理の深層では、ここには母性の否定があるといえるかもしれない。以前、村上龍柄谷行人の対談で、ピアッシングについて、孔子の「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という価値観への挑戦なんだということを話していた。つまり、自己の存在を、親子の連続性に限定する価値観に対する、ピアッシングは挑戦なのである。
 そんな生命の連続性を母性が担っているとしたら、この映画の家庭が、父子家庭でなく母子家庭であったとしても、そこに母性は存在しえなかったはずだ。その意味では、あえて母子家庭であっても面白かったのかもしれない。
 ただ、もし母子家庭であったら結末は変わっていたかもしれない。父と娘の物語と書いたが、じつのところ、父と息子の物語であるのかもしれない。