『JKエレジー』と『そうして私たちはプールに金魚を、』を比べてしまった

 「おまえは大学行って金持ちになるんだろっ、このカネ持って逃げろ!」みたいなセリフがリアリティーを持っていいのか?っていう危機感。
 そういう貧富の差がドラマになりえたのって吉永小百合とか、そういう時代でもう終わったと思ってた。遅くとも、故・佐藤泰志の『そこのみにて光り輝く』が最後じゃなかったのかと。
 だから、言い換えれば、この映画は、「クラッシュビデオ」っていう、実在するかどうか知らないけど、倒錯しきって、性ビジネスかどうかわからないくらいの性ビジネスと、芸人になる夢やぶれて引きこもる兄っていう、今っぽい設えに換装したプロレタリア作品なのかもしれない。女工哀史であるかもしれない。
 が、しかし、松上元太っていう若い作家が、地方の若者の現実を、作品に落とし込んだらこうなったんです、ということなら、これは、やっぱりちょっと時代がまずいことになってる。そう感じさせる同時代感というか、エッジの効いた感覚がある。
 地方の女子高生を主人公にした映画では、長久允監督の『そうして私たちはプールに金魚を、』を観たばかり。あれは実話を基にしていた。長久允監督の装飾部分を取り払って、その実話を『JKエレジー』と並べると、この主人公たちが住んでいる世界の風景は、ほとんど同じなんだと思う。ただ、決定的に違うと思えるのは、『JKエレジー』の主人公は、「フツー」という価値観を捨てるにいたる。捨てざるえない。長久允監督の『そうして私たちはプールに金魚を、』と『ウィーアーリトルゾンビーズ』の2作品は、スタイルの新しさにもかかわらず、長久允監督の主人公たちは、「フツー」信仰を捨てられない。自分たちの「個性」より、「フツー」の方が強くて正しいと無意識に信じてしまっている。「フツー」は言い換えれば、「中流」「標準的」という価値観で、それは、遡れば、高度経済成長の時代だけでなく「天皇の赤子」とかいう人間観にまで遡ってしまう。
 戦後リベラルの弱さは、この「天皇の赤子」という、明らかな排外主義、国粋主義だが、日本国民にかぎり通用する平等の根拠に対する、その国粋主義から切り離された個人の人権の根拠を、キリスト教というバックボーンを持たないまま主張していることである。
 内村鑑三は、2つのJ「JAPAN」と「Jesus」を常に意識していた。その矛盾を意識していることが明治の強さだったのである。日本は、土着の神道国家神道ではない)に、外来の仏教や儒教をどうアジャストしていくかに苦労し続けてきた。ただ無批判に受け入れたわけではないことは、法然親鸞道元というひとたちをみればわかるはずである。
 これに対して、戦後リベラルは、米軍の権威以外には何の根拠もなく、人権を振りかざしただけだったのである。だから、欧米の権威が揺るげば簡単に崩れる。戦後リベラルは、カルチャーというよりカルカチュアにすぎなかった。
 どこかに「フツー」というゆるぎない価値観があり、自分たちの「個性」は、突然変異にすぎないという感覚がサブカルチャーの根っこの感覚なのだとしたら、当然ながらメインストリームのカルチャーが揺らいでいる時には、サブカルチャーは力を持てない。
 今はもう「フツー」というカルチャーに変更を強いる異議申し立てを、映画に限らず、すべての表現は持つべきだと思う。少なくとも『JKエレジー』は、それをせざるえない自覚の地点に立っていると思う。
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