『『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか 』 を読みました

『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)

『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)

 南直裁の『超越と実存「無常」をめぐる仏教史』は名著だった。

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

 いつのことだったか、東浩紀ツイッターで「吉本隆明の『親鸞』を読んだが、何を書いてるか全然わからん。本人も分からずに書いてるんじゃないか?」みたいな書き込みをしているのに出くわして、かなりびっくりしたことがあった。
 というのは、自分としては、吉本隆明の著作の中でも『最後の親鸞』がいちばんわかりやすい本だったからで。それに、山折哲雄もあとがきに「とくに目新しい内容はない」といったことを書いていたとおもう。「目新しいものはない」は、最大級の褒め言葉ではないにしても、教学として正しいという認定ではある。
 なので、東浩紀のツイートには、心底驚いたし、ちょっと危機感を覚えた。たぶん私は分かった気になりすぎているのではないか。
 そういうときに、南直哉の本を読んで、自分は、親鸞蓮如の違いを無視していることに気づかされた。源信僧都法然上人、親鸞聖人の違いは分かりやすい。源信僧都は往生を九品九生に分けている。法然上人は、それを浄土三部経に絞り込む。親鸞聖人はそれをさらに阿弥陀仏の本願ひとつに絞り込む。つまり、この変化は表現の精度が上がっているだけと解釈できる。
 蓮如上人は、親鸞聖人をそのまま受け継いだと思っている真宗門徒は、たしかに蓮如親鸞の違いには気がつきにくい。法然上人が「偏に善導に依る」と言ったように、親鸞聖人が「法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候」と言ったように、蓮如上人が親鸞聖人を敬慕していたことは疑いないからである。
 もちろん、浄土真宗で、親鸞蓮如が同じという場合、それは信心においてという意味で、言説がぴったり一致するという意味ではない。しかし、浄土真宗門徒がこのふたりの違いに目を向けないのは確かだと思う。
 それじたいに問題はないようだが、「信」が不可知化されることで神聖視されることはたしかにまずい。法然上人が口称念仏にこだわったのもそれが理由だったかもしれない。
 吉本隆明の本も「信」という領域には踏み込んでいなかった。うろ覚えだが「これから先は「信」の領域で、自分には判断できない」といった書き方をしていたと記憶する。東浩紀が「自分でもわからずに書いてる」と批判したのはこのあたりのことなのかもしれなかった。すべての宗教が不可知の部分を残していると思うが、その不可知にどこまで攻め込んでいるかが「学」の部分だと思う。

 今回読んだ、南直哉の『正法眼蔵を読む』は、さらに専門領域なので、アマゾンのレビューを見ると、「ちんぶんかんぷん」みたいな評があったが、そんなことはない。むしろ、くどいくらいわかりやすく書いていると思う。

 道元の『正法眼蔵』については、国立新美術館で「中村一美展」を観た時、その図録に『正法眼蔵』の「画餅」の段が引用されていて、これがめちゃくちゃ面白かった。いつか読んでみたいと思ってはいたので、これを南直哉が書いてくれるなら読まない手はない。

 わたくし『正法眼蔵』については全く知らず、そもそもこの訓み方が「しょうぼうげんぞう」であることでさえ、今回初めて知った。そのくらいなんだが、ここでもまた明治の問題にでくわした。
 明治という時代は、多方面で日本文化の改ざん、捏造が行われた時代だったが、曹洞宗についても例外ではなかったようで、大内青巒という、そもそも僧侶でさえない人が発案した在家用の教材『修証義』の「本証妙修」という解釈の仕方が今に至るまで、定説とされているそうなのである。
 ところが、「本証妙修」という言葉すら『正法眼蔵』にはなく、「本証」と「妙修」は『正法眼蔵』ではない「弁道話」という、「江戸時代、寛文年間に初めて発見された」道元の文章には見えるが、ただそれだけなのだそうだ。
 この話を聞いてすぐに思い出してしまうのは『南方録』だ。千利休の弟子、南坊宗啓が千利休から伝授された秘事や口伝をまとめた七巻の書物『南方録』が、元禄時代に発見された。しかも、ちょうど千利休の百回忌に発見され、その後、おそらくは、今に至るまで、茶道の聖典とされてきた。家元制度を維持するのに便利なテキストだったろうと思う。

 だから、明治の混乱を待つまでもなく、そういうシロウトの怪しげな解釈が定説となりうる、寺院の劣化は進行しつつあったと言えるのだろう。わたくしうっかりして

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

 この本の感想を書き忘れていたが、明治時代に廃仏毀釈が吹き荒れた背景には、寺院の腐敗に対する庶民の鬱屈した感情があったことも否定できないようである。江戸時代、徳川幕府がとった檀家制度に取り込まれていたことも仏教寺院の腐敗の原因にあるだろう。
 明治には、西洋文明との衝突もあった。まるで異質の文明を背景に持つ人に、自分たちをどう説明するかはとても難しい。ラフカディオ・ハーンは東洋に好意的だったに違いないが、仏教の輪廻転生を、リインカーネーションという考え方はキリスト教にもあるにもかかわらず、分子レベルの分解の話にしてしまっている。19世紀の西洋社会が、その程度に浅薄な科学万能主義の時代だったといえるのだろう。
 もともと寺院自体が腐敗衰退していたところに、西洋文明との対決を強いられた。そこで、西洋文明に客を根こそぎもっていかれないように、西洋文明もどきの変な解釈を、一般在家むけにでっちあげた。それだけのことが20世紀をとおして、今に至るまでずっと、何の根拠もなく正統的な解釈として受け入れられてきているところがおそろしい。
 何がおそろしいって、靖国神社の構造とまったくおなじなのである。国家神道なんて、明治になってから伊藤博文がでっちあげたことは誰でも知っているわけじゃないですか。それを「日本古来の伝統」で平気で押し通そうとする人間に、正義や真実を期待できるはずがない。そういう連中を自分たちの代表として国会に送り込んで平気な日本人がおそろしい。

 しかしながら、『正法眼蔵』を現代の口語で解説することは、実際にはとても難しいことだと、この本を読むとわかる。源氏物語を全訳したエドワード・サイデンスティッカーが「谷崎潤一郎を英訳するのはとても簡単で、ほとんど英語で書かれているくらい」と評していたことがあった。現代日本語は、そういう言語なのである。吉田健一によると、現代日本文学の最大の作品は、日本語そのもので、明治維新以来百年を経て、日本語はようやく日本人が頭で考えていることを過不足なく言葉にできるようになった。そして、その功労者は、吉田健一によれば森鴎外で、江藤淳に言わせると、高浜虚子だそうである。
 南直哉の正法眼蔵解釈を読んでいると、その背景に20世紀の哲学の成果が反映しているのを見て取ることになる。たとえば、「脱落(とつらく)」という言葉は、現象学のいう「還元」と言い換えられそうに思う。たとえば「恁麼(いんも)」は「生き生きとした現在」と言い換えられそうに思えてくる。たぶん、哲学に詳しい人なら、もっとさまざまな類推ができると思うのだ。
 南直哉はこう書いている。
「ところで 、私が物を書くと 、しばしば読者に 「バックグラウンド 」を追及される 。いわく 、マルクス 、ハイデガ ー 、メルロポンティ 、ラカンレヴィナス … …云々 。仏教書らしくない言い回しは不徳のいたすところだが 、実際 、これらの指摘はすべて正しい 。正しいが 、私は特定の誰かの思考様式を借用して書いているのではない 。そうではなくて 、仏教や 『眼蔵 』を自分にリアルなものとして考えるとき 、役に立つ道具を動員しているだけである 。 「無常 」 「無我 」 「無明 」 「縁起 」 … …これらの言葉が 、自分が生きているという事実にとって 、何を意味しているかを具体的に明らかにしたいとき 、使えそうな道具は 、彼らの著作にあって 、私が眼にした限り 、仏教書には無かったのだ 。」
 日本語がラカンを翻訳できる水準に達しているということは、同時に、西洋哲学が道元を理解できる可能性があるということである。
 道元は宋に留学した。そして、彼が日本に曹洞宗を開いたのであるから、彼は曹洞宗を日本語に翻訳しなければならなかったはずである。その翻訳のすごみは、単に外国語に堪能ということではなく、言葉そのものを知り抜いていると思わせる。
「そこで弟子は問うた 。 「ではどうすれば ( 「如何 」 ) 、よい ( 「即是 」 )のでしょうか 」この質問は 、ただそのとおり ( 「這頭 」 )弟子が師匠に質問しているように聞こえるが 、そればかりではなく 、自ら正しいと考える見解を師匠に披露しているのだ 。これも質問ではないと 『眼蔵 』は考えているのである 。」
 もし翻訳するなら「如何即是 」は、今も昔も「どうすればよいのでしょうか」にしかならなかったはずである。それを道元は「問いではない」と読んだのだった。
 たとえば「さようなら」を英訳すると「good by」になるが、それは、どちらもわかれの挨拶だから、という理由で、そう対応させているだけである。「さようなら」と「good by」の言葉の意味はまるでちがう。もちろん、日常会話を通訳するだけならそれでいい。だが、禅の公案を理解しようとするなら、「如何即是 」を「どうすればよいでしょう」と訳していたのでは何もわからない。
 この言葉に対する鋭さは、今のバイリンガルの及びもつかないものだと思う。須賀敦子がペトラルカの詩をラテン語で読んで「・・・判った時には、ああ、これは駄目だ、とても訳せないし、太刀打ちはできない。それでも、これが判ってよかった、生きているうちに判ってよかったと思って・・・」と書いているが、このとき、須賀敦子が「わかった」ことを、もし日本語で言語化しようとすれば、絶望的に難解になったはずである。
 おそらく、それにちかいことを道元はしようとしている。奇しくも詩の話になったけれど、吉本隆明は『最後の親鸞』を書き上げた時に「一片の思想詩をかきあげたような」とあとがきに書いたのだった。
 「仏道をならうというは 、自己をならう也 。自己をならうというは 、自己をわするるなり 。自己をわするるというは 、万法に証せらるるなり 。万法に証せらるるというは 、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり 。悟迹の休歇なるあり 、休歇なる悟迹を長々出ならしむ 。」
 なので、これは、詩であるような意味で、言葉なのである。
 しかし、『正法眼蔵』は詩ではない。「百丈山の野狐」の話を読むと、『最後の親鸞』とおなじく、ここでも、ぎりぎりのところで「信」の領域にぶち当たるのが面白いと思った。
 『正法眼蔵』は、つまり坐禅の書なのだと思うが、坐禅という修行の正しさを担保するのは、結局「深信因果」なのである。あれかこれかの選択としてでなく、修行者であるかぎり、「因果」を信ぜざるえない。それは、まさに、単に「信」ではなく「深信」というべき態度だろう。その切実さは、親鸞聖人の「法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候」という信の切実さと同じだと思う。
 一方は、「坐禅」という行為、もう一方は「念仏」という行為を成立せしむるぎりぎりの「信」なのである。
 人に生きる意味があるとしたら、「信」にたどりつかざるえない。「生きる意味なんてない」とはだれにも言えない、というのは、「生きる意味なんてない」という言説が、すでにひとつの「信」の在り方だからである。こうして、「生きるとは何か」を問うことは「信」を問うことなのであり、それを究極で追い詰めたのは、これらの鎌倉仏教の祖師たちだったと思う。
 南直哉のこの本は、現代の哲学のさまざまな背景を感じさせながらも、ディレッタントとしてでなく、ひとりの修行者の立場で『正法眼蔵』について書かれている稀有な一冊だと思う。