伊集院光の修学旅行

 JUNKで伊集院光が修学旅行の話をしていた。
 不登校だったんだけど、親御さんが修学旅行だけは行く手はずを整えたんで、とりあえず参加したんだそうだ。
 「京都に行ったんだけど、もう、そのとき噺家の修行とか始めてたから、京都なんか何べんも行ってるし・・・」
 っていうあたり、伊集院光アウトローぶりがかっこよかった。
 だって、ふつう、修学旅行って、行先とか関係ないわけじゃないですか。修学旅行ってイベントは、だから、ハッと考えてしまいました。あれって、団体行動人間を製造する、工程の最後の仕上げなのね。
 「ほらほら、団体行動って楽しいだろう?、いままで、あれこれ言って教え込んできたけど、団体行動してるとこんなに楽しいんだぞー」っていう。
 それで、その後も日本人って、GW、お正月、盆休みって、わざわざみんな同時に休みとるよね。で、混んでるところに行って、みんな楽しそうなんだよね。
 日本の教育が教える「楽しみ」がそういうものにすぎないってことは、私はまずいと思う。
 だって、くらべてみれば、伊集院光がそのおなじ十代の時、今の円楽師匠についていった京都の方が、修学旅行の京都なんかよりずっとディープな体験なのは間違いないわけじゃないですか。そこは議論の余地ないでしょう。
 でも、日本の学校の観点に立つと、伊集院光不登校のおちこぼれなわけでしょう。そのおちこぼれを「受け入れてくれた」他の学生さんたちは、教師に監視されつつ、他校の生徒と喧嘩してみたり、女湯のぞいてみたり。それが楽しい修学旅行で、それを楽しい学生生活の集大成として卒業していく。
 伊集院光が「何これ?」って思ったっていう修学旅行が、けっきょく、いまのこの国の居心地のいい集団社会で、オリンパスでも東芝でも、現状維持できるんだったら、たいていのことには目をつぶるっていう日本人のメンタルはそうとう気持ち悪いと思うし、そして、怖いのは、これが外に向かうと、技能実習生とか難民受け入れとかの態度に見られるような、排外主義に対する無関心になるところ。
 過去においては、それが、徴用工問題とか、関東大震災の時の虐殺とか、中国大陸での残虐行為に反映していると思う。
 集団主義という点では、左右どちらの陣営も同じなのが気持ち悪い。
 日本会議集団主義(というか、全体主義か)なのは、いうまでもないこととして、左派がぜんぜんリベラルじゃないわけです。それが気持ち悪い。
 一例をあげると、小泉構造改革のときに、たかが郵政民営化になぜあそこまで頑強に反対したかわけがわからない。選挙で決定したことなんですよね。それをああだこうだごねてひっくりかえせるとなると、民主主義が成り立たないんですけどね。それを左派が平気でやった。
 慰安婦問題にしても、ウソだとわかったのに30年余もほっかむりして放置した。その理由が、もし謝罪すると右派に攻撃されるからだった。
 つまり、世界が、集団対集団の構造でしか理解できないんだと思うんです。右派左派ではなくて、この集団主義を自覚していないと、まずいことになる気がしますね。
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