佐久間宜行のオールナイトニッポン0にキングコングが来てて

 佐久間宣行のオールナイトニッポン0にキングコングがゲストで来ていた。
 キングコングをコンビでゲストに呼ぶ佐久間宜行のセンスがまず渋いのだけれど、注目されることの多い、キングコングひとりずつの活動にもかかわらず、コンビで登場したときに、結局、漫才師としての能力の高さがはっきりするわけだった。
 漫才師としてのキングコングは、オール巨人週刊プレイボーイの連載で、うまい漫才師のひとつに挙げていたことがあって、意外に思っていた。若いころのダウンタウン喜味こいしが褒めていたことがあるが、それくらいの世代差を感じて、つまり、その世代の差は、戦前から現役の漫才師だった喜味こいしが当時最先端、どころかこれからどうなるかわからないようなダウンタウンの価値を見抜いていた、芸人としての目のすごさであると同時に、ダウンタウンの側としては、だからといって、いとしこいし世代の漫才をそのまま継承するわけにはいかないのは当然で、その後の活躍をみればわかるとおり、彼ら自身が、まったくあたらしい地平を切り拓いていったわけだった。
 それと同じような世代差が、いま、オール巨人キングコングの間にあるんだなと感じてしまったわけ。ダウンタウンの「ごっつええ感じ」の現場の厳しさは、それをそばでみていたYOUの証言などもある。当時はそういうことは表に見えないのだけれど、いま、そういう格闘が行われている現場が、この世代なんだろうなと思った。あるいは、彼らよりもっと若い世代。
 ただ、この放送を聞いて、キングコングはコンビとして揃うと、どこまでも漫才師の間なんだなと思った。そのときも話題になっていたが、一緒にM1を競ったサンドウィッチマンがいま芸人の好感度ナンバーワンになっている。たまたま、その前日の爆笑問題の放送にサンドウィッチマンが通りかかっていたが、そのとき太田光が「おまえらコントも漫才もおんなじ間だな」とかいってたののである。サンドウィッチマンはどちらかというとコントなのだ。
 コントが劇なのに対して、漫才のおもしろさは、いいかえれば、トークの面白さだろう。サンドウイッチマンが、トークの天才・明石家さんまを10年以上君臨した好感度ナンバーワンの座から追い落したということは、時代がトーク離れを起こしているということなのかもしれない。
 ここからは全くの推測だが、もし、トーク離れという現象が起こっているのだとすれば、それはSNS疲れが原因かもしれない。例えば、はてなブックマークもそうだが、誰かが長々と書いている記事、あるいは、チームで取材してまとめたレポートについて、ひとこと突っ込みを入れる、そんなのは、反論にもディベートにもなっていないのだけれど、それで、その記事に毒をまきちらすことはできるし、それだけで、けっこうな数の賛同を得ることができる。そんなことに飽き飽きしているのかもしれない。
 もちろん、明石家さんまの突込みは愛情であり、その突込みのおかけでスターダムにのし上がっていった人は枚挙にいとまがないはずである。ただ、その低劣なエピゴーネンエピゴーネンだってwww)が愛情のない突っ込みを笑いではなく、安易な攻撃に使っているという状況が、トーク離れの原因となり、トークよりもコントを選ばせているのではないかとおもう。
 その翌日のめがねびいきで、小木さんが佐久間宜行について熱く語っていた。というのは、その前日、つまり、キングコングがゲストに来た放送の日の昼間の、佐久間宜行のオールナイトニッポン0のイベントに、小木さんがゲスト出演していたからなんだ。
 くわしくはラジコでも聞いてもらえばいいんだけど、この話に関連して印象的だったのは、そのイベントでけっこうヤバい話までしたのだけれど、そこに来ていた客の誰も、それをネットに書き込んでいなかったことに感動していた。もちろん、これからもそういう傾向がつづくかどうかわからない、もしかしたら、ネットに記事を書く目的でそういう場に足を運ぶたぐいの人もでてくるのかもしれないが、そこに参加した少なからぬ人たちが、SNSに書き込みをすることが、自分たちの居心地のいいコミュニケーションの場を破壊するという認識をもっている。それは明らかではないかと思った。
 笑芸もふくめて、多くのアートはコミュニケーションである。本来、コミュニケーションの場であるはずのSNSが、実際にはコミュニケーションを困難にし、議論が深まることを阻害する。
 この状況は、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」をめぐる不毛な議論に端的に表れている。「表現の不自由展 その後」の再開にさいして、河村たかし名古屋市長がすわりこみをして「天皇陛下に対する侮辱を許すのか」みたいなプラカードを掲げていたが、政治家として大丈夫かと疑問に思った。もちろん許すのであって、それが表現の自由そのものなのである。
 舛添要一

ヴォルテール流に言えば、「私は貴方の展示会の内容には反対だ。しかし、貴方がそれを展示できるように最後まで戦う」という姿勢が必要だ。

とツイートしていた。見直したというより、むしろ、これは言うまでもない。河村たかし文化庁が異常なだけだ。


 今見たら、このツイートにもバカみたいな書き込みがいっぱいまぶれついている。この状況だよwww。この状況がたぶん、コミュニケーションの在り方を変えていく気がする。というか、すでに変えている気がする。
 明石家さんまの突込みは、卓越したセンスと素養にささえられている、というのも実はちょっと嘘で、あの人の突込みは、実のところ、誰も真似できない。現にできた人がいないし、誰もできないから、いまだにあの人があの場所に居続けている。だから、継承者がいないという意味だけからも、変化をもとめられているともいえる。
 が、くりかえしになるが、あれをマネして、大勢で寄ってたかって個人攻撃に使うのはたやすい。そして、そうした不快な個人攻撃があふれる場所から、いごこちのいいコミュニケーションの場へと、人が動いていくのは当然だと思える。
 話を大きくすると、日本人が失ったコミュニティーをどうやって回復するかは大きな問題だと思っている。明治維新の中央集権化と廃仏毀釈で、地域コミュニティーが破壊された。それにつづいて、というか、その結果として、国家権力が暴走し、国自体がつぶれた。その後、再建の途上で地域コミュニティーの代替品となったのは企業の終身雇用だった。高度成長時代、人は企業に帰属意識を持つことができたし、そのことが日本経済の強みでありえたが、バブル崩壊後はそれが逆に作用している。その帰属意識から、労働者が企業に対決意識を持てず、企業の野放図な搾取を許す結果になっている。
 企業に代わるコミュニティーが日本にはまだ誕生していないので、日本の個人は社会的な存在となりえていない。これがひきこもりの原因でもあるし、ネトウヨのような国家の擬人化というか、国家にアイデンティティーを明け渡す個人が増殖するげんいんであるのだろう。
 私には、この構造はすぐにでも崩壊しそうな弱いものに見える。地域や企業に代わるコミュニティーを再建しなければならないことになるが、そのとき、どんなコミュニティーにせよ、その集団がその個人の権利を侵すことがあっては、コミュニティーが成立しない。その意味でもさっきのヴォルテールの言葉が重要なのだが。