神奈川新聞の10月6日の慰安婦問題の記事にひとこと

www.kanaloco.jp
 
 この記事のどこが問題かというと、まず「慰安婦の歴史を否定する言説がまかり通る」というところ。いつどこでそんなものがまかり通っているのか?。
 「「日本政府はきちんと反省し、公的な謝罪と賠償をしてほしい」と訴えた。」って、まるで謝罪してないみたいな言い草だが、村山富市のころから、何回も謝罪している。
 「「強制的な状況に置かれていたのだから謝罪と賠償を求めるのは当然。日本政府が強制したのではないと言い張るのは耐えられない」と思いを吐露した。」
 またぞろ、「強制連行」論争を持ち出してきている。だから、国連の報告でさえ、募集の状況にはあいまいなところがあったと認めているので、一般的な問題として慰安婦問題が人権問題であることには異論はないにしても、あなた個人の証言が正しいとはだれも証明できない。あなたがウソをついていないと誰が保証できるのか。少なくとも「吉田証言」はウソだったのであって、そのウソを掲載したうえ、およそ三十年にわたり訂正も謝罪もしてこなかったことで朝日新聞は批判にさらされた。
 たとえば、2015年に米議会で証言した元慰安婦は1944年から2年間慰安婦として働かされたと言った。逆の立場に立ってみれば、こんなふざけた証言だけで、何の証拠もないものを、謝罪や賠償ができると思うか?。
 それでも、慰安婦のような存在がこの先に2度と繰り返されないようにという願いはもちろん持っているので、基金や財団という形で、あいまいな事実は不問にして賠償しようとしているのに、そのつど、いったん合意してはそれをひっくり返しているのは、韓国の挺身隊協議会なのであって、日本政府が謝罪も賠償もしていないなどという言い草は言いがかり。それこそ「歴史改変」なのである。
 「「少女像は私たち自身。歴史を記憶するための像になぜ反対するのか」と李さん。」
まず、少女像はあなたではない。これははっきりしている。なぜなら、あなたはいまそこにいる。したがって、あなたが少女像であると主張するならそれは捏造なのである。そして、「少女像は私たち自身」と主張しうるその作り物としての性格こそが、それが歴史的に不正確であることを証明していて、正確な歴史の記憶のために害はあっても利することはないことも明らかにしている。
 戦争の残酷さを正確に記憶することは非常に重要である。だからこそ、慰安婦像のようなただのつくりものにすぎないものに、それを象徴させるべきではない。表現は自由である。だから、世界中のどこにばらまくのも勝手だと思う。ただ、だからといって歴史的事実はそれで左右されない。
 「「自らやった悪いことをなかったと言い、私たちの身に起こったこともなかったと言う。許されないことだ」と語気を強める」
 これが事実だと証明するものは何もない。だから「なかった悪いことをあったといい、あなたたちの身に起こらなかったことをあったという」ことも同じように許されないことなのである。ひどいことを言うようだが、どちらが真実かは、だれもわからない。わかったと思わせるものがあるとすれば、それは感情にすぎない。
 その感情はよくわかる。だから、日韓の政府間で何度も合意し、基金や財団を立ち上げ、謝罪もしているのであるが、そのたびごとに、一方的にその合意を破棄するのは、それはもう、人権だの正義だのということではなく、ナショナリズムにすぎない。
 俯瞰してみれば、当時、慰安婦問題などに国家が関与していた蓋然性は低いと思う。なぜなら、政府の不拡大方針に反して陸軍がかってに戦線を拡大していったのが、中国の戦線の実情であって、したがって、いまにいたるまで、満州事変や上海事変を戦争と呼んでいない。なぜなら、国が関与していないからである。
 軍がやったことで、国がやったことではない、は、たしかに奇妙な言い草だが、当時の状況はまさにそうした狂った状況だったのである。
 軍がやったことだから、国に責任がないとは言えないし、誰もそうはいってない。だからこそ、謝罪も賠償も申し出ている。にもかかわらず、到底あったとは考えられない、国の関与を認めなければ謝罪を受け入れないという態度は、歴史を自分の都合のいいように捻じ曲げようとする脅迫にすぎない。
 「「その結果が今の日韓の対立だ。歴史に向き合わずに政治的、経済的圧力をかけている」と断じた。」
という結びは、ここまでくると、どちらがどちらに言うべき言葉なのかわからなくなる。
 この慰安婦問題は、わたしも若いころは人権問題だと思っていた。しかし、事情が明らかになってくると、これは、ナショナリズムの対立であり、人権問題はそのよりしろにされているだけだと気が付いた。
 ナショナリズムはいつでも正義の名のもとにさけばれるものである。