『イエスタディ』ネタバレあり

 ダニー・ボイル監督の『イエスタディ』は、観にいこうかいくまいか、散々にまよった映画だった。
 バナナムーン・ゴールドで設楽さんが観に行ったとかで、その日の放送は、ビートルズ談義で盛り上がって、映画そのものについては、深い話をしたわけではなかったものの、たぶん面白かったんだろうなと感じさせた。
 でも、わたしは、ビートルズの映画は、『イエローサブマリン』も含めて、4本とも観ているし、ロン・ハワード監督がビートルズのツアーを追った「THE BEATLES EIGHT DAYS A WEEK THE TOURING YEARS」も観ましたし、それに、さきごろ、三枚組の新譜を発表した中に、ビートルズのカバーを13曲も入れた竹内まりやは、ビートルズの曲は原曲のキーで歌わないとビートルズにならない、と言っていたし、ビートルズの曲をビートルズ以外の誰が歌っても、それがビートルズと同じようにヒットするかどうか微妙なのである。
 と思ってたら、この映画の主人公も「結局、演者の問題なんだ」と悩むシーンがあった。
 ということは、結局、観に行ったってことなんだけど、それは、鴻上尚史が週刊SPA!のコラムで「名作」とぶちあげていて、「隣のおじさんが泣いてた」と書いていたので、そうなのかなぁと思って。
 実際に観てみて、そのおじさんがどこで泣いたかはわかった。わたしとしては、ちょっと意表を突かれて、まっしろになった。もう公開からだいぶ経っているし、ネタバレしてもいいのかもしれないけど、一応、秘しておきます。ヒントとしては、「ビートルズのいない世界ってことは?」ってこと。
 ああそうそう、ストーリーに全然触れてないけど、ある日、世界中で12秒間の停電が起こって、その間に、色んなものが消え去ってしまったらしく、それまでの世界と微妙に違う、パラレルワールドみたいなことになっちゃって、そこでは、主人公のほかごく少数の人しかビートルズのことを知らない。
 その設定が、面白いのかどうか、ちょっと確信が持てなかった。予告編を観ても、ドリフのコントみたいな気がしちゃいますよね。


映画『イエスタデイ』予告

 鴻上尚史の隣のおじさんが泣いたところで、わたしはなぜ泣けなかったか、といえば、やっぱり、序盤のパロディみたいな展開が泣く準備をさせてくれなかったからだとおもう。言い換えれば、フリが効いていない。
 さっきも少しふれたが、主人公の売れないミュージシャンが、ビートルズの曲をコピーしてネットにあげても、最初はあんまりパッとしない。わたしは、その方がリアルに感じられる。そのあと、結局、予告編みたいに売れるんだけど。
 あのビートルズの名曲を、主人公がどれだけ歌ってもあまりパッとしない、というのと、この映画みたいに、60年代のビートルズみたいに一大センセーションを巻きおこすっていうのと、どっちがよりありそうか、なんて議論には、もちろん何の意味もない。どちらもあり得ないんだから。
 でも、ビートルズといえば、世界中を巻き込む熱狂のあのイメージがあるのだから、この主人公が、そのビートルズをいくら歌っても売れない方が、同じフィクションでも、コントラストが効くと思う。
 そして、ここからは、ネタバレになってしまうけれど、やっぱり、これを書かないと後から読み返した時、自分でも何を言ってるか分からなくなるので書いておくことにする。ネタバレがイヤな人はこの先を読まないようにして下さい。

 ジョン・レノンが生きてるんだ。「ビートルズがいない世界」には、ジョン・レノンが普通の人として生きている。
 この映画では、主人公がジョン・レノンに出会うとき、すでにスターになっている。そこが個人的にはちっと乗り切れなかったところだった。それよりも、いくらビートルズを歌っても誰も振り向かない時に出会った方が、喪失感が強く出たと思う。曲は名曲なのに演者が自分では誰も振り向かない。目の前にジョン・レノンはいるのに、ビートルズはいない。
 あの展開では、ジョン・レノンの登場が唐突に思えた。でも多分これは、観客としての私が、ショービジネスの中にいないからかもしれない。鴻上尚史のように、ショービジネスの中の人には、あれでもいいのかもしれない。
 もうひとつは、ダニー・ボイル監督のビートルズ愛が強いためと思うが、ビートルズ主演の映画『ハード・デイズ・ナイト』、『レット・イット・ビー』へのオマージュや、ビートルズの「聖地巡礼」みたいなシーン、パロディやギャグが満載で、どっちかというと、そっちでだいぶ笑えた。
 例えば、主人公が「ホワイトアルバム」というタイトルを提案すると、「多様性にひっかかる」と言われてしまうとか、エド・シーランに「ヘイ・ジュード」の「ジュード」という名前が古すぎるという理由で、「Hey dude」に変えられてしまうとか。これは、「ジュード」がジョン・レノンの息子さんのジュリアン・レノンのことだと、映画の中のエド・シーランは知らないっていうギャグで、こういうしゃれたシーンは削りたくないだろうし、そうすると、ジョン・レノンの登場シーンを頂点に絞り込んでいくって作り方にはならない。
 ビートルズが一般常識ではない世代には、この手の小ネタは、ちんぷんかんぷんなわけで、そこを全部削って、ジョン・レノンのエピソードをピークにした方がエモーショナルにはなったと思うが、全体としてはコメディーとして作られている。
 60年代のビートルズのセンセーションは、映画『マイ・ジェネレーション』にあるように、「スウィンギング・ロンドン」といわれた、60年代のロンドンの輝きが不可欠だったとと思う。発信する側のビートルズの才能は今更言うまでもないが、しかし、それを受け取る側の若者たちにも、時代の気分、暗い戦争が終わって明るく開けていく気分がたしかにあったことは記憶しておくべきだと思う。