『人生をしまう時間』観ました

 『人生をしまう時間』は、もともとNHKのドキュメンタリー番組だったものを映画に編集しなおしたものだそうだ。ひとつエピソードを足して、ナレーションを排した。
 こないだ観た『樹木希林を生きる』も、もとはNHKのドキュメンタリーで、偶然だがターミナルケアでリンクしている。『樹木希林を生きる』は、大女優が死を覚悟した最後の一年を追った稀有なドキュメンタリーだった。内田裕也が「希林が怖い」と言っていたのが分かる気がした。
 しかし、樹木希林のように大スターでなくても、人が生きて死ぬことは、結局、厳粛なことだ。しかも、誰にとってもまったく等価に厳粛で、誰かの死が誰かの死より価値があるなどということはない。すべて等しく無価値であることが死の厳粛さの内容なのだから当然だけれども。
 人は人として生きているが、死ぬときは生体反応として死ぬだけだ。いったん死のカウントダウンが始まれば、死がカラダからどんどん人間を奪っていく。これでもまだ詩的すぎるかもしれない。カラダが、人間という虚構を次々に捨てていき、最後に生体反応としての死だけが残る。そして生体は物体となり、その時点で他のすべての物体と等価になる。
 堀越洋一医師は、

国際基督教大学の学生時代にマザー・テレサの「死を待つ人々の家」に行き、「ここにいる患者に何をしてあげればよいか」とマザー・テレサに尋ねたら、彼女は「髭を剃ってあげなさい」と答えた。要するに、一緒にそこにいるだけでいいんだと。彼はそれに非常に反発を覚え、帰国して群馬大学医学部に入学し、医師になった
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という経歴の人だそうだ。
 それが今は、在宅終末医療に携わっている。

 監督の下村幸子さんのインタビューがあったので、リンクを張っておきます。
「普通の佇まいのおうちのドアを開けると」そこに、こんな風景がひろがっていたということにジャーナリズムが刺激されたようだ。 
 たしかに、そう遠くない昔には、死は、家の扉の中に閉じこもってはいなかった。死は地域で共有されていた。しかし、そうした地域コミュニティーが失われてしまった以上、死はすべて閉ざされたドアの中でそのすべてのプロセスを終える。それでもまだそれは幸運な方で、病院で最期を迎え、家族が遺体を引取りにさえ来ない場合もあるそうだ。