『草間彌生∞infinity』観ました

 ドキュメンタリー映画草間彌生∞infinity』は、時系列で草間彌生の半生をふりかえる形式のために、分かりやすい反面、説明的かもしれないが、そのために、史実に対する公平な態度というか、fairnessというか、そういう点には信頼がおけるつくりになっていて、草間彌生自身が時々口にする、アンディ・ウォーホルが彼女のアイデアを盗んだといったことについても、そのディテールまで立ち入って聞いてみると、そういう言い方をしても、たしかに間違いじゃないと思えてくる。
 反復は、たしかに草間彌生の一貫した手法だし、複写機を用いた複製の反復は、彼女の方が先だったというのも納得できる。そう聞いてみると、オリジナリティにこだわらないアンディ・ウォーホルの発言も別の意味をおびて聞こえてくる。
 しかし、アンディ・ウォーホルがそれを展開したのに対して、草間彌生はもっと多義的に変化していった。たとえば、キュビズムの最初の作品がピカソの《アヴィニョンの娘たち》であることに誰も異論はないと思うが(あるかも。≪アヴィニョンの娘たち≫はキュビズムじゃないとか)、ジョルジュ・ブラックもやはりキュビズム創始者と呼ばれるのだし、ピカソがとっととキュビズムを通過していったのに対して、ブラックは生涯キュビズムに魅せられ続けた。
 ソフトスカルプチャーについては、更にひどくて、今では、クレス・オルデンバーグがその創始者になっているが、これは草間彌生の方が先だったのはかなり確かだと思う。
 ただ、このあたりのことは、コロンブスの卵に似たところがあって、誰かが一度始めたあとは「何でこんなこと今まで誰もやらなかったんだろう」と思うほどだし、followerの方の作品が良かったりもする。
 例として、iPhoneとその他のスマホをめぐるゴタゴタはすぐに思いつく。ほかにも、サーフィンのショートボードを発明したのは、ボブ・マクタビッシュかディック・ブリュワーかなんていう論争がずっと続いてきたりした。
 そういう世の中に溢れている「初めて論争」と草間彌生の場合が圧倒的に違うのは、草間彌生が、女性で、しかも、日本人であったために、ピカソとブラック、ボブ・マクタビッシュとディック・ブリュワーのように対等な評価さえ得られなかったことだ。当時、女流画家が単独で展覧会を開くことすらできなかったという。その上、日本人なのだ。おそらく、ウォーホルやオルデンバーグは、盗んでも罪悪感を感じなかったのだと思う。ピカソの《アヴィニョンの娘たち》をアフリカ彫刻の盗用だと言わないように、アジア女性のやってる奇妙なことからヒントを得たことを盗用と思う思考回路がなかったのだろう。草間彌生自身は、日本を発つとき、それまでに描いた絵をすべて焼き捨てて必ずこれを超える作品を作ると決意していたが。
 そして、これがもし、その五〇年も前ならば、オーギュスト・ロダンカミーユ・クローデルのような悲劇に終わっていたかもしれない。現に、草間彌生もまた、失意のうちに心を病み帰国を余儀なくされることになった。
 しかし、そうした性差別と民族差別とは別に、草間彌生の評価をぐらつかせたもうひとつのものは、「ハプニング」といわれるボディーペインティングイベントだった。
 自伝の『無限の網』には、

私のハプニングは、なるほど、その都度、10から15ぐらいのアメリカの法律を犯している。

と彼女自身が書いている。
 この映画で個人的にいちばんの収穫だったのは、草間彌生のハプニングを動画で確認できたことだった。草間彌生の展覧会には何度も出かけているが、このハプニングがどんなものだったかが、ちょっとわかりにくかった。全裸になった男女の体に草間彌生がペインティングするっていうことは分かるのだが、そうやって言葉で聞くのと、片鱗なりとも実際に動く絵で観るのとは大違いなのである。
 草間彌生自身も全裸なんだということがわかったし、男も女もホントに全裸なんだということもわかった。日本の美術館は、なんでそういうところをぼやかすのかと苦笑してしまう。いままで観てきた展覧会からの印象では、草間彌生自身は脱いでなかったのかな?と思ってたのだが、彼女自身もみごとにすっぽんぽんだとわかって、それでこそ草間彌生だと見直した。
 このボディーペインティングイベントは、ひとつには反ベトナム戦争のイベントとして行われたものだが、それだけで片付けられるものでもないと思う。ヌードやセクシュアリティーについてのタブーに挑戦することは、アートの行為そのものに違いない。
 いま、草間彌生は、存命のアーティストのなかで、もっとも客をよべるアーティストだそうだが、今の観客にとっての草間彌生

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草間彌生
 

こうしたポップな草間彌生だと思う。
 しかし、「前衛の女王」といわれて、キャリアの頂点にあったときの草間彌生が挑戦していたボディ・ペインティング・イベントの価値をあっさり忘れ去るべきではないと思う。
 とくに日本では、それは単にスキャンダルとして伝わっただけだった。これは、おかっぱ頭と腕時計の入れ墨でパリの寵児となっていた藤田嗣治の存在が、モンパルナスの狂乱とともに、単にスキャンダルとしてしか伝わらなかった戦前の状況と何も変わらず、日本のあいもかわらぬ未開ぶりをよく示している。それは、最近の村上隆会田誠にたいするバッシングにつながっているのだろう。
 また、戦争体験→創作→精神的危機→ポップアイコンという経歴は、今年の三月に『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』というドキュメンタリー映画が公開されたヨーゼフ・ボイスに似ている。草間彌生ヨーゼフ・ボイスも、再評価が始まったばかりで、じつは、まだまだ未解決の難問なんじゃないかという気がする。
 草間彌生再評価のきっかけとなったのは、1989年、ニューヨークの国際現代美術センター(CICA)のオープニング記念展として開催された「草間彌生回顧展」だった。このとき、草間彌生が保管しておいたメモや手紙の膨大な量に整理が煩雑をきわめ、予定していたオープン期日を遅らせることになった、オープニング記念なのに。
 その資料の中に、多い日には1日に17通もあった、ジョゼフ・コーネルからのラブレターも含まれていた。多くのジャーナリズムが「アメリカ戦後美術の貴重な資料が新たに発見された」と色めき立ったそうだ。
 ともに母親の抑圧に支配されていたジョゼフ・コーネル草間彌生が惹かれあったのはよくわかる気がする。この映画の中で、草間彌生が語っていたことによると、ふたりともセックスが嫌いだったそうだ。庭でキスをしているところを、ジョゼフ・コーネルの母親に見つかってバケツの水をぶっかけられたことがあった。そのとき、ジョゼフ・コーネルが「sorry」と、草間彌生にではなく母親に謝ったのに失望した。
 草間彌生の母親は、まだ幼い草間彌生が絵を描いているのを見つけると、取り上げてびりびりに破いたそうだ。その母親を捨ててきたアメリカでまたそんな母親に出会うことに宿命を感じざるえない。
 ところで、私はこのブログを、はてなダイアリーのころから書き続けているだけでなく、その前は、もうなくなってしまった他の日記サービスから書き継いでいるので、個人的な日記を書いているつもりで、うっかりマナー違反をしてしまうことがある。
 以前、草間彌生について書いたときに、浅田彰草間彌生展についての評論がすぱらしいので、紹介するつもりでほぼ全文引用した記憶がある。浅田彰のこの文章は、上にも書いた草間彌生の自伝にもほぼ全文引用されているくらいのすばらしいもので、つい紹介したくなったのだが、リンクを張るだけにしておくべきだったかもしれない。ただ、過去の経験から、リンクを張っておくだけだと、リンク先が消滅したりすることがあるので、残しておきたかったということもあった。
 リンクを張っておくので一読されるとよいと思う。
www.kojinkaratani.com

yayoikusamamuseum.jp