あやしい絵展

 翌日の4月25日からまた美術館が閉館することになった。そうとは知らず、その前日の土曜24日に「あやしい絵展」のチケットを予約していた。危うく見逃すところだった。奇しくも、この前の緊急事態宣言の発令の日は、このおなじ東京国立近代美術館にピーター・ドイグ展を見に出かけたらちょうどその日から閉館していて愕然としたのだった。美術館を閉めるのが感染拡大の抑制に効果があるのかどうかひそかに疑問。あんな無言の空間で感染する?。何かやってる演出としか思えないけどね。
 それはともかく今回の展覧会でどうしても見たかったのはこの絵。

f:id:knockeye:20210425012427j:plain
甲斐庄楠音《畜生塚》大正4年頃 京都国立近代美術館所蔵

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/knockeye/20210425/20210425023317_original.jpg

 これは秀吉に切腹を命じられた秀次の愛妾たちが四条河原で処刑される直前の様子を描いたものだそうだ。タイトルの畜生塚はまた「畜妾塚」とも書くそうだ。
 画家がひとつの作品を描く場合、どこで筆を止めるかは重要で、たとえば、ダ・ヴィンチの《アンギアーリの戦い》は、どれだけ賞賛されたとしても、結局、未完にしか見えないが、この絵はこれで完成に見えるがどう?。成立の過程を知らないので、もしかしたら未完なのかもしれないが、この絵はここで筆を擱いたからこその迫力がある。もし、裸婦画としても着衣画としても完成していたら嘘くさかったろう。
 甲斐庄楠音の作品群の前がいちばん人だかりしていた。

f:id:knockeye:20210425045227j:plain
甲斐庄楠音《畜生塚》に見入る人
f:id:knockeye:20210425065338j:plain
甲斐庄楠音《春宵(花びら)》
f:id:knockeye:20210425054003j:plain
甲斐庄楠音《毛抜き》
f:id:knockeye:20210426064613j:plain
甲斐庄楠音《横櫛》

 この甲斐庄楠音速水御舟の《京の舞妓》、稲垣仲静の《太夫》など、この時期に日本画の女性像は新たな表現を手にしつつあった。しかし、稲垣仲静、速水御舟は早く死んだし、甲斐庄楠音は、土田麦僊に「穢い絵」と批判されて映画美術に転向していく。溝口健二雨月物語』の衣装は甲斐庄楠音がデザインした。が、日本画にとっては大きな損失だった気がする。

f:id:knockeye:20210425040452j:plain
岡本神草《口紅》
f:id:knockeye:20210425044012j:plain
北野恒富《淀君

『ステージ・マザー』

f:id:knockeye:20210420063155j:plain
ステージ・マザー

 『アニマル・キングダム』、『世界にひとつのプレイブック』で渋い脇役を務めていたジャッキー・ウィーヴァーが主演した『ステージ・マザー』は、見逃してほしくない映画。
 この映画でのジャッキー・ウィーヴァーは、ひとり息子が『ミッドナイト・スワン』の草彅剛みたくなって縁遠くなっている母親の役。そんな息子の訃報が届くところから映画が始まる。
 旦那の制止をふりきって葬式の参列に赴いたメイベリン・メトカーフ(ジャッキー・ウィーヴァー)だったが、息子の経営していたゲイバーが存続の危機にあることを知って、その立て直しに乗り出していく。
 この1月の議会襲撃は、アメリカの民主主義に対する信頼を大きく毀損した。敗れたとはいえ、トランプは歴史的な多数の支持を得ていた。となると、議会を襲撃したあの連中がアメリカを代表していないとはいえない。
 アメリカのマッチョイズム、男性信仰みたいなものがトランピアンのイメージと結びついて、ある種の典型的なアメリカ人像が私たちの脳裏に住み着いた。
 メイベリン・メトカーフの旦那は、今のアメリカ人像としてあまりにもリアルなのだ。
 ジャッキー・ウィーヴァーが実はオーストラリア人で、この映画が実はカナダ映画だということも一考すべきかもしれない。属国と揶揄されるほどアメリカべったりな日本ほどではないにしても、カナダもオーストラリアもアメリカに親近感を持っていてもおかしくなかったはずである。
 しかし、トランプの4年間は、日本人だけでなく世界中の人たちの脳裏に、このメイベリンの旦那のようなアメリカ人の姿を生じさせた。メイベリン・メトカーフを演じたジャッキー・ウィーヴァーの圧倒的な存在感を輝かせているのはテキサスの旦那の姿だと思う。
 あらかじめ言っておくと、この映画の評価は、Rotten Tomatoesでもあまり高くないのだけれども、ジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演の『サバービコン』でもそうだったが、アメリカの負の側面があまりにも生々しく描かれていると拒絶反応を起こす批評家が一定数いるらしい。
 話がそれざるえないが、日本翻訳大賞っていうのがあって、その創設者であり選考委員でもある柴田元幸さんが、アフター6ジャンクションってラジオでその第7回の選考作品について語っていた。中に『フライデー・ブラック』っていうアフロアメリカン作家の短編小説集があって、それはblack lives matterの状況を背景にした作品なのだそうだ。アメリカでは2018年に出版された本だそうだが、柴田元幸さんが驚いたのはその本のblurbと言われる帯の推薦文、4人の白人作家が書いているそれは、この作品の政治的なメッセージの部分をほとんどスルーしているそうなのだ。後でリンクを貼っておくので興味のある方は聞いてください。宇多丸さんも唖然としていた。
 こういうアメリカの状況を笑えた時期はもうとっくに過ぎ去った。差別による断絶や分断は世界中に広がっている。断絶をどうやって乗り越えていくかが世界的なテーマになっている。それが、この映画てばたまたまゲイの息子と母親の断絶になっているだけ。
 LGBT映画が花ざかりだった頃があった気がする。『ミルク』とか『キャロル』とか。そのころは、でも、まだ他人事だった気がする。今はもう彼らの孤独がふつうの人にまでひたひたと及んできている気がする。たとえば、今「ふつう」という言葉を使ったが、一瞬、「ふつうって言葉使って良かったんだったっけ」とためらう気分になる。「ふつう」が差別用語になりかねない。隣人が突然、DHCの社長みたいにヘイトを叫び始めるかもしれない。「ふつう」という幻想が蒸発してしまった。
 メイベリン・メトカーフはテキサスの教会で聖歌隊のリーダーをしている主婦だった。言い換えれば「ふつう」だった。それがゲイの息子の死によって「ふつう」でいられなくなる。「ふつう」に閉じこもろうとして、彼女も「ふつう」に閉じ込めようとする旦那と戦わざるえなくなる。LGBT映画で、意識高い系でなく、初めて素直に泣ける映画だった。

stage-mother.jp

 
open.spotify.com

『ミナリ』

『ミナリ』と『春江水暖』は対照的に感じた。
 『春江水暖』は、ちょっと四季耕作図とか四季花鳥図みたいに、一枚の屏風に四季を全部描き込んだような、東洋的な時間感覚さえ感じさせる。
 『ミナリ』は韓国の家族を描いているんだけど、韓国映画ですらない。ハリウッド映画かどうかはあれだけど、アメリカ映画なのは確かで。西部開拓史の時間軸を少し動かしてみただけともとれる。
 主役は『バーニング』のクールガイぶりが印象的だったスティーヴン・ユァン。製作総指揮もこの人。この人はそもそも韓国系アメリカ人なんだが、韓国系アメリカ人のアイデンティティはどうなっているのか興味深い。
 『春江水暖』の中国純度はかなり高いのに対して、『ミナリ』に韓国文化の背景なんてものはない。
 『春江水暖』の古典的とも言えるリリシズムに比べると『ミナリ』は散文的に見えちゃう。これも、だから悪いってことじゃない。
 『ミナリ』は、韓国のおばあさん「オモニ」を新鮮に感じられるかどうかで評価が分かれるかも。と言いつつ頭に浮かんでいるのは『ノマドランド』のアメリカのおばあさんたちの衝撃。あの人たちは役者じゃなくて本人だから。そうなると、すごみ、重みがやっぱりちがう。
 今週の週刊文春町山智浩が『ノマドランド』について書いてた。ラジオのたまむすびで言ってたこととはちょっとニュアンスが違っていた。Amazonでの仕事のキツさについて映画ではちょっとぼやかしてるってことだった。それでも日本の派遣社員の条件よりマシだそうだ。いずれにせよ、正負どちらの面からも語れてしまうのがあの映画の魅力。
 同じ週刊文春池上彰アメリカで黄禍論が復活しているってことを書いていた。こないだアジア人のおばあさんが襲われてニュースになった。襲ったのが黒人だったのでちょっとマスコミの筆が鈍っている。だってこないだまで「black lives matter」つって、アメリカだけじゃなく世界中デモがあったのに、「いやいや」ってことじゃないですか?。「yellow lives matter ,too!」なんてデモをしなきゃならんのだろうか?。そうなると「white lives matter」つってるのと同じに聞こえてしまわないか?。
 この記事によると
「1992年のロサンゼルス暴動の際には、韓国系と黒人の間の緊張がひどく高まり、街中での銃撃戦にまで発展した。」
 この映像はニュースで見て憶えている。白昼の街中で韓国人が拳銃をぶっ放していた記憶がある。この映画の中でも触れられているが、このころ多くの韓国人がアメリカに移住してきていた。後から来たやつが前からいたやつに拳銃をぶっ放してる。あんまりいい感じは持たなかった。韓国の移民は難民ではない。ある程度の経済力を持って来ている。
 この主人公もそういう移民のひとり。ひよこの鑑定士をしている。腕がいいらしいことが仄めかされている。彼がロサンゼルスからアーカンソーに移ってくる動機が実は曖昧。単に、大農場のオーナーを夢見るノーテンキな性格と取れなくもないし、そう取ってもいい。しかし、鑑定士仲間と「教会に行かないのか?」「韓国教会が嫌でこっちに移ってくる人もいるのよ」なんて会話が交わされる。
 韓国のキリスト教は、興味のある人は自分で調べてもらいたいが、明治以降に仏教や儒教と対立しつつ近代化とともに受容されてきた日本の場合とは全く違う。個人的な印象では韓国のキリスト教と軍事政権は表裏一体をなしている。
 『ミナリ』がそういう生々しい背景をほぼ無視しながら、「オモニ」にフォーカスしてストーリーを進めていくことに個人的には軽い苛立ちを感じた。最後に「すべてのオモニに捧げます」と献辞が出る。「オモニの映画だったの?」というはぐらかされた思いになった。おばあさんは歴史の波をただ受けるしかない立場だと言えるだろう。その部分だけ描いていいのかという思いが少しあった。
 ついでに、小さな疑問としては、主人公が農園の水に苦労する。一方で、オモニは小川のほとりで「ミナリ(韓国語でセリのことだそうだ)」を育てる。敷地内に小川があるなら、何も井戸を掘らなくても、そこから水を取ればよさそうだが。
 こんなふうにストーリーの表面に比べて、描かれていない裏側がずいぶん大きく感じられるんだが、描かれていないだけで、嘘が描かれているわけではない。それをよしとするか物足りないととるかだが、個人的にはポジティブに捉えたい。
 主人公は、冒頭でバカにしていたダウジングで井戸の水源を見つける。結局、アメリカのやり方を受け入れることに決めたってことなのだ。たぶん小川から水を取らなかったのは、この展開のためだったと思われる。描きにくい背景はどうあれ前向きに生きていくことを選ぶリアリズムを描きたかったのだろう。描いていない時代背景はこっちが勝手に勉強すれば良いのかもしれない。スティーヴン・ユァン自身は何と言っても当事者なのだし、もっと多くの語られないことを、当然、身にしみて知っている。
 ラストにはけっこう大変なことがあったにもかかわらず、さらに前向きに生きることを選ぶ主人公に、語られない背景の重みを感じた。『春江水暖』のリリシズムは、台湾やウイグルの問題にまで想像力を広げられないからこそのリリシズムだととれるわけ。中国の歴史という縦糸、漢民族という横糸のほんの一隅で生きていくしかない庶民のリリシズム。
 それに対して『ミナリ』のリアリズムは、祖国を捨てて新しい土地で生きていくしかない庶民のリアリズム。そこでは、歴史の縦糸も時代の横糸も言い訳にしても仕方ない。だからこそオモニなのか、それともオモニではないのかってあたりに判断を迷った。オモニはリアリズムの中のセンチメンタリズムだと思うので。


www.youtube.com

オリンピック不参加の呼びかけをしたいと思います

 ライゾマティクスを観た東京国立現代美術館で、同時開催されていたTokyo Contemporary Art Award 2019-2021 受賞記念展も観た。
 受賞者のひとり風間サチコって人が展覧会に寄せた「魔の山考(菩提樹によせて)」という文章が面白かったのでリンクしておく。

tokyocontemporaryartaward.jp

 読むうちに

忘れもしない3月25日の夜8時。友人宅で家飲みをしている最中に、小池都知事の緊急記者会見の放送が始まった。「都内での新型コロナ感染者が41人確認されました。これは感染爆発の重大局面と言えます。今後は週末の外出をお控えくださいますよう、都民の皆様に強く要請いたします」という緊迫感あふれる声明で(いま思えばたったの41人だったが)

という部分があった。
 まったくたった41人の感染者で自粛要請して飲食店も映画館も美術館もやみくもに閉めてしまう大慌てぶりだった。
 今、大阪ではどうなってる?。連日1000人を超える感染者を出している。その最中に、「コロナを克服した証しとして」とか言ってオリンピックの聖火が走り始めている。
 去年の夏頃には、外国の高官から日本の感染者の少なさについて尋ねられた麻生太郎が「日本は民度が違う」という見当違いな返答をして、相変わらずのバカっぷりを披歴していた。
 感染の第一波の段階では日本の感染者が何故か少なかったのは確かだった。ところが変異種の登場により、第一波のころに欧州を襲ったようなパンデミックが日本を襲おうとしている。
 英米ではワクチンの接種が急ピッチで進み、文字通り「コロナの克服」へと向かっているのと対照的だ。
 この間、いったい日本の行政は何をしていたのかわからない。民度の高い国民という幻想にあぐらをかいて、自粛を要請しただけ。ろくに補助金も出さない。コロナによる失業者は10万人を超えている。ワクチンの接種率は英米の40%超えに対して日本は1%に満たない。
 この英米との差については、今度は外国の高官は電話をかけてくることもないだろう。尋ねるまでもない。日本の行政が先進国の中で飛び抜けて無能というだけ。
 まるで「アリとキリギリス」のキリギリス役を、政府に無理やりやらされているような気分だ。
 オリンピックは、IOCのバッハ会長が頑として開催を譲らない。おそらく責任を東京都に丸投げするつもりだ。しかし、今開催すれば悲惨な結果は目に見えている。日本人としては世界各国のアスリートに不参加を呼びかけるしかない。絶対に来ないでください。

『春江水暖』

 『春江水暖』は最近に観た映画の中でまっさきに書いておきたいと思う映画。
 『シン・エヴァンゲリオン』の映像美と比べても、南宋時代の絵巻物を意識したと監督が語るロングショットは引けを取らない。それに、エヴァンゲリオンの方はもう興収七〇億を突破しているのだし。
 『ミナリ』と比べても、東洋の家族の物語として、こちらの方に興味がそそられる。監督のインタビューによると、最初の構想では5時間になる予定だったそうだが、中国では2時間半を超えると興行として成立しないと言われて泣く泣く縮めたそうなのだけれど、それは、中国に限らないと思う。スコセッシの『アイリッシュマン』だって3時間半。でも、あれは、Netflixの配信がメインだから。その連想というわけではないと思うが、『アイリッシュマン』とか『ゴッドファーザー』とかと比べたくなる濃密な家族の物語。
 『春江水暖』の「春江」は富春江という河で、この場所は、三国志孫権が呉を開いた場所だそうだ。この映画の英語のタイトル「Dwelling in the Fuchun Mountains」は、富春山居図という14世紀の絵巻物のタイトルそのままで、監督の意向も、絵巻物として見てほしいそうだ。
 実際、富春江のロングショットがそれだけで美しい。今の加茂川を中心に同じようなロングショットで京都を撮っても、こんな風には美しくならない。中国が過渡期であるには違いない。現に映画の中でも製紙工場の汚染で河が汚れ始めていることにも触れられている。しかし、まだ昔の面影を忍ぶことができる。その意味で、奇跡的な一瞬を映し出す作品なのかもしれない。
 主人公を4人兄弟にしたのは四季それぞれに1人ずつの物語を当てはめて撮りたかったからだそうだ。4人兄弟なので彼らがひとりっこ政策以前の生まれであることがわかる。岩井俊二監督の『ラストレター』の中国版『チィファの手紙』では、脚本段階でその辺のことが問題になったそうだ。が、あの映画ではあの姉弟がいないと成立しないので「田舎ならありえたかも」ということにしたらしい。
 ちなみに、グー・シャオガン監督はインタビューで日本映画について聞かれて「岩井監督の青春映画が、映画を好きになる最初のきっかけになった」と答えている。欧米や韓国とこのあたりに感覚の違いを感じる。岩井俊二のリリシズムに共通した感覚を持っているように感じる。
 この映画は3部作の予定らしい。この先どう展開するのか想像もつかない。
 中国の文化水準の高さに疑いを抱いたことはない。出光美術館白磁の婦人俑を見たときにはちょっとかなわないとおもった。同じように陶俑を比較すると日本のものはもっと猥雑で享楽的、韓国の陶俑は見たことがないけれども、李朝の陶器のおおらかさや素朴さもともに魅力的だけれども、あの白磁の婦人俑は洗練を極めていた。それは、自分たちが世界の中心であることを一度たりとも疑ったことのない洗練だと思えた。
 『春江水暖』は単に優れた映画というだけでなく、ハリウッドにも欧州にもない、全く新しい文体でそれを成し遂げている。そしてその文体が自分たちの文化に発していると堂々と主張している。小津安二郎黒澤明ではなく真っ先に岩井俊二をあげるイメージは他の国にはない。
news.yahoo.co.jp

www.youtube.com

www.youtube.com

ライゾマティクス_マルティプレックス

www.mot-art-museum.jp

 東京都現代美術館に「ライゾマティクス_マルティプレックス」を観に行った。
 ほとんどの部屋で静止画の撮影可だったのだけれども、静止画で撮っても伝わらないと思うので。


www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 最先端の映像技術がパフュームのダンスパフォーマンスに結実しているのが興味深い。鹿島茂によると「十九世紀が二十世紀に決定的に変わった直接的原因」は「結論から言ったらそれはロシア・バレエしかない」そうだ。ロシア・バレエというのはディアギレフの率いたバレエ・リュスのことだ。

「ディアギレフの公演を比類ないものにしていたのは、装置と衣装を視覚的劇場芸術に合わせ、統合する、その手法だった。(中略)ケスラーは、まったく新しいものを発見して衝撃を受けたのではなく、すでに存在していたものの可能性を思い知らされたのである」

という

の一節を以前にも引いた。
 NHK日曜美術館のインタビューでは、ライゾマティクスのメンバーは誰も自分のことをアーティストと考えていないそうだ。
 当時、ディアギレフが自分をどう考えていたかと考えると、20世紀と21世紀を決定的に変えたのはパフュームだと言いたくなるが、実のところ、それはわからない。
 ただ、バレエ・リュスがそうだったように、ライゾマティクスには「まったく新しいものを発見して衝撃を受けたのではなく、すでに存在していたものの可能性を思い知らされ」る。ライゾマティクスの技術、MIKIKOのコレオグラフィー、パフュームのパフォーマンス。今あるものを合わせるとこれができるという衝撃。それは1人のアーティストがもたらす衝撃とはちょっと違って、自分たちが生きている同時代を見せられる衝撃。ふつう人は過去しか見えない。それは当然で、だから、現在を見せられると未来を見たような衝撃を受ける。
 それがダンスを選ぶのは、ダンスが時間芸術であると同時に空間芸術でもあるからと、もう一つの理由は、人間の肉体を用いた有史以前からの芸術表現だからだろう。もっともプリミティブな表現だからこそ時代を見やすい。
 誰かひとりの芸術家の作品を観る衝撃は、時代を超えて自分と同じ人間に出会う衝撃。それとは逆に人々の違いを超えて同じ時代を生きている衝撃がここにある気がする。


www.youtube.com

www.youtube.com

 以下のQRコードからも更にいっぱい色々見られます。

f:id:knockeye:20210412011053j:plain
LEDブレスレット
f:id:knockeye:20210412011748j:plain
コスチュームコントローラー
f:id:knockeye:20210412012135j:plain
LEDコスチュームコントローラー
f:id:knockeye:20210412012518j:plain
メッシュフレーム
f:id:knockeye:20210411142356j:plain
particles 2021

モンドリアン展

 ピエト・モンドリアンの日本での展覧会は23年ぶりだそう。

f:id:knockeye:20210404002013j:plain
モンドリアン《線と色のコンポジション:lll》

 モンドリアンといえばこういう絵を思い浮かべる。というか、これしか思い浮かばないんだけど、これは最晩年の到達だそうで、初期の頃の具象画も今回は多かった。
 ハーグ市美術館所蔵作品が中心だそうで、もちろん画業の一部なんだろうけれども、それでも具象から抽象へと変化する過程が窺えて面白かった。

f:id:knockeye:20210404001840j:plain
ピエト・モンドリアン《花咲く木々》
f:id:knockeye:20210406003658j:plain
ピエト・モンドリアンコンポジション木々2》
f:id:knockeye:20210404001807j:plain
ピエト・モンドリアンコンポジション(プラスとマイナスのための習作)》

 こんな風に作品を並べてみて、具象画と抽象画を紐づけて、抽象画を理解してみるというのも、モンドリアン鑑賞の常道かもしれない。同じモチーフが具象から抽象へと変化する描き方で捉えられているのがわかりやすい。
 ピカソキュビズムの初期の頃の絵がセザンヌに源泉があるとよく言われるし、現にセザンヌにはまるでキュビズム寸前のような絵もある。だから、セザンヌピカソの絵をこの上の絵のように進化の系図のように並べることもできそうなのだけれども、セザンヌ自身は何かものを描く具象画家であり続けた。
 ピカソもまたものを描く画家であり続けた。ピカソの絵に「コンポジション」なんてタイトルは見たことがない。「泣く女」、「何何の女」、「何々の上の静物」。
 ピカソセザンヌに共通しているのは、ものを見えたままには描かない志向だろう。世界が自分に見せてくるもの以上のものを描こうとしている。ピカソは《アヴィニョンの娘たち》を「最初の悪魔祓い」と呼んだ。
 この対極にいるのがモネだろう。モネは世界が見せる一瞬の色にこだわり続けた。最愛の妻カミーユが亡くなったとき、死がその頬に刻んでいく色の移ろいを捉えようと夢中で絵筆を動かし続けた。世界が見せる一瞬の今がモネの関心事だった。
 セザンヌピカソは移ろいの向こうにあるものを描こうとした。セザンヌが私淑したのはシャルダンだし、ピカソドガを好んでいた。ドガの「かかとをを見る踊り子」をピカソも描いている。ドガの窃視願望に共鳴している。
 モンドリアンの初期の頃の具象画には、すでに、世界を見たままに描きたくない傾向がみえる。今回の展覧会で初めて知ったのは、モンドリアンルドルフ・シュタイナーに影響を受けていたということだった。
 ルドルフ・シュタイナーの学問自体は科学的にはとっくに否定されていると思う。「エーテル」なんて言ってる時点で、いつの時代だよってことになる。しかし、シュタイナーを考えるときには設問の仕方が一番の難問だと思う。
 神がいるかいないかで神を語ることはバカげている。それと同じことがシュタイナーについても言える。問いかけ自体が難しい。簡単に答えられる問いに答えて分かったつもりになっても仕方ない。
 モンドリアンの初期の具象画も晩年の抽象がすっぽりなくても評価が得られるレベルだと思った。しかし、最晩年の、今わたしたちがモンドリアンと認識する作品群には他にはない安らぎを感じる。他の言葉には還元できない。対象に挑む事をやめ存在する事を選んだ作品群は無題にふさわしい。これがファッションや建築に応用されていくのもよくわかる。柳宗悦のいう「文様」の域だと思う。