ゴッホ展

 緊急事態宣言全面解除一日前に、フライイングでゴッホ展に出かけた。つうかまあ、前に言ったように、今週は日曜日から働いてたのでもう限界。金曜日まで待てなかった。それに今は予約制だし。それはそうと、なんか予約制になってから、どさくさにまぎれて美術館の入館料上がってない?。2000円だって。
 ファン・ゴッホ美術館につぐゴッホのコレクションで知られるクレラー=ミューラー美術館のコレクションである。
 ゴッホの絵は生前ほとんど売れなかったのに、死後は売れまくっている。この落差は不思議すぎる気がする。生前、では、ゴッホの作品の評価が低かったのかといえば、そんなことはないと思う。ゴッホ自身も自負するところがあったに違いない。ゴーガンにしても、今回の展覧会にも彼らが2人で暮らした黄色い家の絵があったが、彼らがなぜジェフ・クーンズのような巨万の富を手にしえなかったのかを考えると、つまるところ、彼らがそれを欲さなかったからだと思ってしまう。

素描とゴッホ

 今回の展覧会はほとんどゴッホのみで構成されているので、画家を志し始めた頃の素描でひとコーナー設けられている。よく言われることだが、素描家としてのゴッホも素晴らしい。まとめて展示してあるとそれが素人目にもわかる。素描もまるで油彩画のように丁寧に仕上げている。
 以前、池田満寿夫の本で知ったが、グザヴィエ・ド・ラングレ著『油彩画の技術』によると、「19世紀以降の近代画家で物理的に満足すべき画肌の状態を保っている画布はかろうじてゴッホとアンリ・ルソーだけ」だそうだ。
 激情を叩きつけたような、筆触の目立つマチエールを見るかぎり、ゴッホは奔放に絵筆を走らせてそうじゃないですか?。ところが、科学的に見るとどうやらそうじゃないらしいです。画工としてめちゃくちゃ丁寧に、絵の具の使用法に忠実に描いていたらしい。
 このことが頭にあったので、今回、油彩のマチエールに注目して観ていた。すると、確かに、どれもひび割れひとつない。オランダ時代の《鳥の巣》と、さっき言った《黄色い家(通り)》の空の色を見てほしい。まるで今描きあげたばかりのようにみずみずしい。
 19世紀以降の画家でもっとも優れたアーティストは誰かという問いは難しいが、最もすぐれたアーティザンは誰かといえば、ゴッホと答えてもいいわけです。特に、ゴッホは「最晩年の一年では220点もの油絵を製作している」と池田満寿夫は驚いていた。ホント?。

点描とゴッホ

 クレラー・ミュラー美術館のコレクションからジョルジュ・スーラの《ポール=アン=ベッサンの日曜日》とカミーユピサロの《2月、日の出、バザンクール》が来ていました。
 ピサロとスーラに関しては山田五郎YouTubeで面白いことを言ってました。
 スーラといえば言わずと知れた点描法を発明した画家なんですが、スーラの点描は、色の三原色ではなく、光の三原色を使用しているそうなのです。だから、画面があんなに明るく見える。これは知らなかった。
 ピサロが一時期、スーラに影響されて点描に転向したのは、絵を見ていればわかるのですが、ピサロはスーラを印象派に引き入れようとしたらしいのです。これが印象派の仲間に軋轢を生んだ。このことが印象派展が終了する直接の原因だったそうです。これは知らなかった。ピサロは、印象派の中でも先輩格で、人柄からも印象派のまとめ役といった立場にいたので、この人が抜けたのは痛かったそうです。
 スーラは早逝し、ピサロも後に点描を捨てます。「点描は画家のオリジナルな筆触を奪う」と言っていたと記憶するし、現に、点描以前のピサロの方が断然良いと思います。
 印象派を「筆触分割」という技法で捉えてしまうと、点描法に行きついてしまうのですが、スーラに反発した画家たちの言ったように、画家の主観の解放という自由が印象派の肝であったと思います。
 後期印象派に分類されるゴッホも、時には点描派とされることもありますし、今回、来日している糸杉などは、短い線分の集合なんですけれども、「筆触分割」などという、何かを分割する発想とは真逆で、何かが集積し、うねり、盛り上がっていく、ゴッホにしかない筆触ですね。
 スーラが30代の若さで亡くなったのは残念です。山田五郎さんのYouTubeでも言ってましたが、スーラの絵には動きがないのですが、ゴッホを見れば、スーラは刺激を受けただろうと思います。点描を動かすことが可能だと。


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gogh-2021.jp

 山田五郎YouTubeといえば、ゴッホは自殺ではなく他殺だった可能性があるそうです。弾丸が体内に残っていたことと、ゴッホを殺害した証言もあったそうです。まだまだ謎ですが。


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『ドライブ・マイ・カー』のソーニャとワーニャ

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』の映画内戯曲の「ワーニャ叔父さん」は、独特の演出がされている。多国籍の俳優が、各母国語でセリフを言い、その翻訳が字幕で背景に映し出される。
 つまり、俳優たちは各人の身体に覚え込ませた戯曲を演じなければならない。この演出で、俳優はチェーホフのテキストに肉体を提供するだけの存在となり、観客と俳優は、チェーホフのテキストに対して、平等に純粋に向かい合うことになる。
 原作にはない、このアイデアが、映画を非凡なものにしている。カンヌで脚本賞を獲るのもむべなるかななのだ。
 色々な言語が飛び交うなかでソーニャのセリフは手話なのである。この手話をワーニャ役の西島秀俊が目で追っているのが気になった。
 各俳優のセリフは、いわば独白にすぎないはずだと思う。俳優同士は互いのセリフを理解できないことが演出の前提だと思う。なので、ソーニャの手話をワーニャが目で追うのは間違いなんじゃなかったかなと思う。
 たしかに目で追わないと聞いていないことになる。ただ、そもそもテキストは俳優の体内にある。だから、あの手話のセリフも聞かなくてよかったと思った。

憲法12条が改められるとどうなるか?

 土曜日にデモに出たので、頼まれた休出を断ったのだけれども、月末だし、どうしてもというので、日曜日にひとりで出勤していたら、セコムが誤作動を起こした。
 要するに、誰か他の部署の人が、私が働いているのに気が付かないで、セコムをかけて帰ってしまったのだろう。
 無人であるべき場所に誰かいるってことになって、セコムが駆けつけた。わりとよくあることなのだ。ところが、今回はどういうわけか、警察官が5人もついてきていた。
 私ももう帰りかけていたところだったので、社員証を見せて、はいさようならで済むかとおもいきや、管理職に電話して何か揉め始めた。
 この手のことは、よくあるとは言わないけど、わりとあることだし、わたしは顔写真付きの社員証を見せてるんだし、管理職に電話した時点で、出勤の事実は確認できてるんだし、ごちゃごちゃ揉め始めた時点で腹が立ってきた。
 今から考えれば、前日のデモのこともあったと思う。ホントはウィシュマさんの妹さんがデモに参加する予定だったのだが、入管に見せられたビデオがあまりにひどくて精神的なショックを受けてしまい、ウィシュマさんの変わり果てた姿が頭から離れず、不眠症になって帰国してしまったのだった。入管の所業はほとんど人間の仕業と思えない。
 その上、伊藤詩織さんのレイプ事件を揉み消した中村格警察庁長官になったのにも腹が立っていたし、またそのレイプ事件の控訴審で、山口敬之がいけしゃあしゃあと、被害者を誹謗する陳述をするにも、バックに安倍元首相の力があるからなのは明らかで、そういうことが重なっている時に、警察官が偉そうなことを言うのにだんだん腹が立ってきたのだった。
 セコムのアラームが鳴って、不審者がいるかもって、駆けつけてきた。それはいい。しかし、わたしはもう社員証も出したし、上司に確認も取れている。それで、さらにまだ何か不満があるなら
「不審者を探せば?」
と言った。突っ立ってんじゃなくて建物の中を探せや。そうだろ。
「不審者がいるんだろ。探せよ。どこかにいるんだろ。」
すると1人の警官がわたしを見て
「あんた」と言った。私が不審者だと言う意味なのだ。
「俺はもう社員証みせただろ!」
と。
 頭にきていて気が付かなかったが、いつのまにか来ていた上司とセコムの社員と警官でまたごちゃごちゃ長話し始めたので、少し頭を冷やしてから
「謝罪は?。」と吹っかけてみた。しないに決まってるけど。別の警官に
「この人さっき俺のこと不審者扱いしたよね、聞いてたでしょ。」と。
その時にはもう鼻じらんでいて、勝手に会社を出た。私を不審者扱いした警官は引き止めたそうにしていた。もしくは、私が肩のひとつもぶつけないか待ち受けていたのかもしれない。
「とんでもねえな」と言い捨てた。「神奈川県警は」と言う言葉は口に出さなかったが、まあ実際セコムの誤作動だけでも、あの時私を逮捕しようと思えば、彼らはできたわけである。
 昔、野際陽子が言ってたけれども、駐停車禁止でも何でもない、路肩に停めた車の中で、旦那を待っていると、1人の警官が寄ってきて車を移動させろと言う。
「主人がすぐきますので」
それでも警官は移動させろと言う。それでちょっとした小競り合いになったそうだ。
「ここ駐停車禁止じゃないですよね。」
というと、警官は
「あんたを逮捕するなんて簡単なんですよ。」
と言ったそうだ。
 日本の警察とはそういう組織なのである。高市早苗が「憲法12条の”公共の福祉”を、”公益及び公の秩序”に変更すると明言」したそうだが、行政の現場ではすでにそれが行われているからこそ、ウィシュマさんや伊藤詩織さんのような事件が起こるのだ。政治はむしろ権力の暴走を抑える方法をこそ考えるべきなのはいうまでもない。
 安倍元首相が「新しい公共」と言い出したことがあった。何のことかとよく聞くと、単に新しい公共工事のことだった。おぞましい。

togetter.com

『MINAMATA』オススメ

 
 ジョニー・デップ水俣病を世界に伝えたカメラマンを演じるとは聞いていた。
 しかし、そのカメラマンがユージン・スミスだとは知らなかった。
 映画の冒頭、《楽園への歩み》が映った時、ものを知らないというのは、なかなか楽しいもので、「まさかユージン・スミスなの?」と衝撃が走った。
 ユージン・スミスはもちろん知ってますよ。長年、美術館をうろうろしてるんだから。  
 でも、ユージン・スミス水俣に居たの?え?、沖縄にも?、と、こういう驚き方ができるのもものを知らないせいだと思えば、不勉強にもいい面があるわけだ。
 「LIFE」の編集長役でビル・ナイが現れたのにもワクワクした。
 ビル・ナイが出てくる効果ってのはあると思う。ビル・ナイが「LIFE」の編集長であるかぎりは、あとは安心して日本に飛べばいい。
 その後の展開も知らないことばかりで驚いた。
 この映画はユージン・スミスの最晩年の伝記としても面白い作りになっている。これはユージン・スミスの再生の物語でもある。
 先日に紹介した加藤典洋の『アメリカの影』にも、江藤淳小島信夫の『抱擁家族』を読んで衝撃を受けていた同じ1966年に、石牟礼道子の『苦海浄土』が書かれていたことは重要だと書かれていた。
 石牟礼道子が見つめていた失われていくものを、ユージン・スミスもまた見ていた。 そのことが感動的なのは、そのものがローカルで特異的なものではないと分かるからだ。
 ユージン・スミスはその共感に身を委ねることに決めたのであり、その共生によって再生したのだと思う。
 ユージン・スミスの撮った水俣の写真には、その共感が映っている。
 ユージン・スミスの助手として写真を撮り始めるアイリーンに 
アメリカ先住民たちは写真に撮られると魂を抜かれるとおそれたものだが、写真は、撮る側の生命も削る。そのことを心して撮ってくれ。」
という。
 まさにそれが映っている。
 これは一枚の写真についての映画でもある。彼らの命を削っているのは、写真を見ている私たちかもしれない。
 音楽は坂本龍一。日本側の配役には、真田広之加瀬亮浅野忠信國村隼と、日本にも英語でお芝居ができる役者が増えた。浅野忠信は、今回は英語を話さないけれども。

longride.jp

 

ウィシュマさん事件の真相究明と再発防止を求めるデモ

 日比谷で、ウィシュマさん事件の真相究明と再発防止を求めるデモに参加してきました。写真もいっぱい撮るつもりでしたけど、よく考えたらデモに参加してたら、デモの写真は撮れないんですよね。
 200人くらいの人が法務省のまわりを一周するだけのデモでしたけれども、レンガ造りの建物を見ていると、情けなくて涙が出そうでした。こんな由緒ありそうな建物の中身が、若い女の子をいびり殺して喜んでる連中かと思うと、自分の国が恥ずかしくなります。
 以下で署名活動のサイトもありますので、よろしければぜひ参加してください。

www.change.org

www.huffingtonpost.jp

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#JusticeForWishma

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宇多丸さんが『先生、私の隣に座っていただけませんか?』を評していた

 『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は20日に観た。
 昨日、たまたま宇多丸さんのアフター6ジャンクションを聴いてたら、映画評のコーナーで取り上げていた。事前に知らなかったので、ちょっとワクワクした。映画でも絵画でも、観た後で人と意見を持ち合うのは楽しい。
 いうまでもなく私よりはるかに深く鋭いんだけど、ただ、一点たしかに言えることは、虚と実の描き方が際立っていない。そのことが、独特のわかりにくさにつながっていると思う。それがよくもあり、悪くもあり。
 私自身は、前にも書いたとおり、その描き分け自体よりも、早い段階で、黒木華柄本佑の浮気に気づいていることが、「観客に」わかってしまう。それで、虚も実も、映画の仕掛けではなくて、黒木華の演じる女性個人の仕掛けになってしまう。
 すると、振り回されるのは観客よりは柄本佑ということになり、観客は柄本佑の視点に立つしかなくなる。そうなると、映画全体は一筋の復讐劇になってしまうわけで、虚と実といいつつ、どっちがほんとうなんだ?っていう緊迫感は損なわれる。
 登場人物がコマみたいに扱われている」というリスナー評が紹介されていたが、というより、黒木華の描くマンガが、復讐のアイテムになってしまうわけで、そこが映画内マンガの独立性を損なわせることになった。
 それが悪いのかというと、女性の復讐劇と見るなら、それでも間違いじゃないわけで、悪いとは言えない。そこがわかりにくさなんだと思う。
 「プラスティック・ラブ」については、あの歌詞は
「恋に傷ついたあの日からずっと、、、」
「私のことをけっして本気で愛さないで。恋なんてただのゲーム、楽しめばそれでいいの。」
「私を誘う人は、皮肉なものね、いつも彼に似てるわなぜか、思い出と重なり合う、グラスをおとして不意に涙ぐんでも訳は尋ねないでね」
と、これだと、黒木華柄本佑に未練たっぷりってことになってしまいません?。
 ちなみに本家、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」は、12インチシングルが限定発売だそうです。ジャケ写が、ネットでバズった写真に変更されています。

www.hmv.co.jp

 「ドライブ・マイ・カー」の歌詞は
「私はいつかスターになる。それまであなたに私の車を運転させてあげる。そしたら、あなたのことを好きになるかもね。今は車がなくて残念だけど、運転手は見つけたってわけ」 
って感じ。
 こっちの方がコメディーには向いている気がしたんだよな。

『先生、私の隣に座っていただけませんか?』観ました

www.phantom-film.com

 作品の中で別の作品が描かれる入子構造の作品も少なくないと思う。観客が見ているのもフィクションなわけだから、その中にまたフィクションがあると、何か向かい合わせの鏡を見ているような感覚が味わえる。
 最近で言うと、カンヌで脚本賞を獲った『ドライブ・マイ・カー』では、ちょっと変わった演出の『ワーニャ叔父さん』が映画の重要な部分を担っていて、舞台のセリフと映画のセリフが響きあって、登場人物の感情を溢れさせる面白さがあった。
 こないだ山田洋次監督の『キネマの神様』、主演のはずだった志村けんがコロナで急逝されて、急遽、沢田研二が代役を務めたって映画を観た。そこでも『東京物語』の原節子北川景子が演じるところがあって、そこは面白かったが、ただ、前作(といっても35年くらい前)の『キネマの天地』でもそうだったんだけど、肝心の主人公が作る「映画内映画」がボヤッとしてる。あれをちゃんと作らないと成立しないと思う。
 その意味では、『先生、私の隣に座っていただけませんか?』の映画内「マンガ」には、日本ってマンガ大国なんだなと納得させられる。マンガそのものもそうだけれど、マンガを仕上げていく作業や現場がいちいちリアル。
 しかも、漫画家夫婦のおはなしなので、2人の漫画家さんに実際に作画してもらってる。かなり贅沢に感じるわけ。
 この「映画内マンガ」って手法は、たぶん『バクマン。』の大根監督の発明なんじゃなかったろうか。
 『キャラクター』って映画も菅田将暉が漫画家さんの役で主演していた。あれも「映画内マンガ」がしっかりしていた。
 『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は、柄本佑黒木華が漫画家夫婦、奈緒が2人を担当する編集者を演じている。柄本佑は、もともとは黒木華のマンガの先生だったらしいんだけど、最近5年は作品を描いていない。今は黒木華の方が売れてる。そういう状況ではありがちかもしれないけど、柄本佑奈緒と不倫してる。
 黒木華の連載が一区切りしたころ、田舎で一人暮らししている彼女の母・風吹ジュンが交通事故でしばらく運転できなくなってしまったので、一時的に、田舎で同居生活をすることに。ついでに、黒木華は教習所に通い始める。
 黒木華が女流漫画家のオタクぶりを発揮して、実家の自分の部屋で、突然新作マンガを描き始めるんだけど、それが、ダンナに浮気された女流漫画家が教習所の教官と恋に落ちるって内容で、それを覗き見た柄本佑は、そのマンガが事実なんじゃないかと疑い始めるって話。
 面白いアイデアのコメディーで、実際に劇場で笑いももれる場面もいっぱいあった。私も面白かったし、楽しめたのだけれども、ただ、一点どうなのかなと思ったのは、けっこう最初の方で、黒木華がダンナの浮気に気づいてるとわかってしまう。
 最後の謎解きのところまで、気づいてるか気づいてないか観客にバレないように引っ張ってくれたら、もっとあざやかな気分だったろうと思った。
 つまり、地の部分では柄本佑黒木華に振り回される、一方で、映画内マンガの部分では黒木華柄本佑に悩まされる、というコントラストがもっと強く出た方が良かった気がする。
 早い段階で黒木華が浮気に気づいてることが観客にわかってしまうと、地の部分でも、映画内マンガでも、黒木華柄本佑の被害者になってしまって、コントラストが効かないのだ。
 オチのどんでん返しが鮮やかだったので、余計にそこが惜しかった気がした。でも、人によっては、あのくらいの方がリアルでいいと思うかもしれない。わたしは、もっとコメディーに振り切って欲しいと思う方なので。
 その意味では、エンディングの曲がeillが歌う「プラスティック・ラブ」だったのもちょっとテイストが違う気がした。同じく竹内まりやから選ぶとしたら、それこそ「ドライブ・マイ・カー」じゃなかったかと思う。大人の事情を度外視すれば。

Drive My Car

Drive My Car

 この映画のもともとの企画は「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2018」 の準グランプリ作品だそうだ。どういうものか知らないけれどオリジナリティのある面白い小品に仕上がってる。

 柄本佑では『きみの鳥はうたえる』もオススメ。

 黒木華では『リップヴァンウィンクルの花嫁』もオススメ。