イスラエル美術館展

 三菱一号館美術館イスラエル美術館展を観た。美術展だけでなく結婚式も待ちわびた人が多いらしく、ここの庭ではよくあるのだけれども、花嫁さんが記念写真を撮っていた。

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三菱一号館の庭

 イスラエル美術館って聞くと、空爆の心配が先に立つくらい、正直言って馴染みがないので、観たことのない絵がほとんどだった。
 中でも、レッサー・ユリィ の《夜のポツダム広場》は

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レッサー・ユリィ 《夜のポツダム広場》

イスラエル美術館という頭で観ていると、「水晶の夜」を思い起こして、凶々しくも感じる。描かれた年は1920年だそうだから「水晶の夜」の18年前。この時代のユダヤ人の没年には敏感になってしまうが、1931年にベルリンで没したというから、「水晶の夜」は生き延びて、まだ収容所には送られなかったみたいだ。
 他にも何点か展示されていたが、印象派的というより象徴主義的に感じる。多くの名画の色がそうであるように、《夜のポツダム広場》の青色も写真では再現できない。
 「印象派・光の系譜」とサブタイトルがついている。コロー、ブーダン、ドービニーといった印象派の先ぶれと言われる画家から、ゴーガン、ヴュイヤール、セリュジエとナビ派と呼ばれる画家まで網羅されていて、キュレーション意識がわかりやすい構成になっていた。
 なお、一室だけ撮影できるようになっていたので撮らせていただきました。写真では再現できないけれども、絵葉書とか図録の印刷よりははるかによい。これ考えてみると、これからは図録もWEB化していくかも。その方が利益率が高いはずだし、観る側も重たくないし、たぶん画像も精細だろうし。権利の問題がクリアできればその方がよいんだろう。

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ギュスターヴ・クールベ《森の流れ》

 クールベって、リアリズムの画家って紹介されるけれども、今までその意味がちょっとあやふやだった。山田五郎さんのクールベの回を観て初めて意味がわかりました。


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 モネが私淑したという意味では、ドービニーもそう。今回の展示でも、明らかに川の中からの視点だとわかる絵がある。ドービニーは、船の上にアトリエを拵えて船旅を楽しみながら絵を描いた。2019年、SOMPO美術館でのドービニー展では、版画集『船の旅』の絵が多数展示されていて楽しかった。


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 モネもドービニーの真似をしてアトリエ船から絵を描いた。セーヌ川の治水が印象派の誕生の大きな要因でもあるっていう説を軸にした展覧会を見たことがある。水運の発展が市民に船遊びを流行させた。そして、モチーフとしてモネは水の絵をよく描いた。「印象派はセーヌの賜物」は、こじつけのようでもあるが。
 水のモネに対して、ピサロは土のピサロと呼ばれた、と、これは昔のピサロ展で言われていた。その意味は、初期の頃のピサロの絵を見るとよく分かる。モネの水のように、ピサロの描く土はみずみずしかった。しかし、一時期スーラにいたく感銘を受けて点描を始める。のちに止めるのだけれども、そもそもピサロ印象派である必要すらなかったほど元々うまかったと思う。

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カミーユピサロ《朝、陽光の効果、エラニー》

 ゴッホのこの絵も初めて観た。

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ゴッホ《麦畑とポピー》

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 ゴッホゴッホ以外の何者にもなれない。謙虚なのか傲慢なのかよくわからない。多分、ピサロの方がつきあいやすそう。
 ほかにもゴーガンの《ウパウパ(炎の踊り)》や、セザンヌの《川のそばのカントリーハウス》など、日本初出の作品が多く観がいがあると思います。

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ポール・ゴーガン《ウパウパ(炎の踊り)》

ゴーガンはこういうのを発見した最初の人のひとりだと思います。今でいう反グローバリズムだけど、そういう「イズム」ではなく。

『空白』ネタバレあり

 『空白』の監督は、『ヒメアノ〜ル』の吉田恵輔。『ヒメアノ〜ル』のムロツヨシ佐津川愛美は最高。濱田岳森田剛ムロツヨシ佐津川愛美の4人のバランスがすごくよくて名作だと思います。絶対見てほしい。
 しかし、『愛しのアイリーン』になると、役者さんは気持ちよいんだろうけれども、そして、たしかに熱演が楽しいのだけれども、「こんな人いる?」って感想が湧いてくる。ツレが先に酔っ払って、自分が酔えないみたいな。 
 『空白』は、『由宇子の天秤』と同じ感じを覚えました。いいか悪いか判断に困る。なんかおかしいと思いながら、先が読めないので引っ張られていく、その意味では「ハイハイそういうことね」っていうありきたりな映画よりずっといい。けれども、引っ張られていった結果、何にもなかったみたいな。これがいいかどうかなんだよなぁ。
 エリック・ロメールの『コレクションする女』と比べてみたい。あの主人公は、自分を対象化してる。映画は主人公自身のナレーションで進んでいく。でも、最後には自分に裏切られる。観客が見ているのは、主人公が語っている物語ではなく、物語を語っている主人公なんです。
 どうなるんだろうと思いながら引っ張られていたあげくに何も起こらないのは同じとしても、主人公がそれを生きていると信じているストーリーの外側に、それを見ている観客がいて、そして、さらにその外側に、それ全体を観察している監督の視点を、エリック・ロメールの映画にはたしかに感じるんです。
 『空白』と『由宇子の天秤』にはそれがないんじゃないかと感じるのは、やはりシナリオのリアリティの差で、『由宇子の天秤』のその部分はあの時書いたし、森達也の映画評にもあったので繰り返さないけれど、『空白』の場合、発端、主人公(古田新太の演じる漁師さん)の娘(伊東蒼)が、万引きを疑われて逃げ出すところ。
 あの娘、逃げるかな?。逃げないと物語が作動しないんだけど、学校でもほとんど存在感なく、親にも教師にも逆らう気さえ持てない女の子が逃げるかな?。
 逃げない気がします。このシナリオの問題は、彼女が逃げたことではなく、彼女がなぜ逃げたかの解答がないことなんだと思います。 
 彼女が万引きした理由はよくわかる。あの父親のストレスは半端ないでしょう。でも、彼女を捕まえた店長(松坂桃李)は父親とは真逆のタイプなんだし、彼女の性格を考えると、逃げるかな?。
 現実世界では逃げるってことはありうる。でも、ドラマの世界では必然性がない。彼女が逃げるパッションがどこから出てきたのか、彼女の内面的なリアリティがはっきりしない。
 なので、その後の父親の行動が、どこかステレオタイプ的に感じてしまう。彼女の行動が、父親をこう動かしたいがための作為に見えてしまう。
 ただ、その後の展開は「ああハイハイ」とはならない。答えが出るのかなと期待させる。娘が逃げるシーンは『東京オアシス』の小林聡美がダンプに飛び込みかけるシーンに似てる。肝心の瞬間が意図的に映ってないんだ。
 だから、この先に答えがあるんだろうと期待させられるのだが、答えは最後まであやふやなまま、万引きしたかしなかったかの答えは割と早く出るけれども、なぜ逃げたのかの答えが出ない。 
 死の欲動だった可能性はあると思うし、そういう描き方もされている気配がある。しかし、踏み込みが足りない。
 店長が危うく主人公と同じ場所で死にかける場面がある。店長と娘は弱さに似ているところがある。
 そう考えると、店長と、正義感の強いパートさん(寺島しのぶ)の関係は、娘と父との関係に対応しているとも考えられる。だとしたら、パートさんの正義感からくる行動が店長をますます追い込んでいく展開もありえたのにそうならない。実際に娘と店長に何らかの関係が存在した可能性もありえたがそうもならない。店長とパートさんは肉体関係を持つ展開もありえたがそれもない。
 学校関係者が父親に問い詰められて、苦し紛れに「店長が昔うちの生徒に痴漢したという噂があった」と伝えるのだが、それもフリだけあって何の展開もない。
 なかったと見せてあったとか、あったと見せてなかったとかの揺らぎがなさすぎる。それで、父親の行動が一本調子の空回りに見えてしまう。
 『search/サーチ』というパソコンの画面だけで進行する映画があったけど、あれくらい二転三転してもよかったとおもう。この煮え切れなさは、悪くないのだが、良いというには踏み込みが足らない。揺らぎがなさすぎる。
 主人公が漁師という設定も、「漁師=マッチョ」という固定観念を観客に想起させてしまう。地方議員でも歯科医でも保育所の所長でも不動産屋でも何でもありえたのではないか。漁師では、主人公が他の人物の外にいすぎるとおもう。
 ラストシーンは、小さな奇跡とも言える。とってつけたセンチメンタリズムともとれる。死んだ娘の側に立つと都合が良すぎると思えてしまう。あれで感動できる観客がどれくらいいるかわからない。
 ただ、ここに書いてきたようなあるべき揺らぎの方がありきたりだとも言うことはできると思う。だからこそ、エリック・ロメールと比べたくなるわけで、何か起きそうで起きない場合の、起きそうな説得力と起きない説得力がロメールの場合、ずっと深い。『クレールの膝』の「膝」についてのしつこさが『空白』にはないと思える。
 こう書いてくると、酷評してるみたいなんだが、このじれったい感じか監督の意図だとも考えられるわけで、面白くなかったわけではない。どう思うか、自分で確かめてください。『ヒメアノ〜ル』未見の方は見てください。

ヒメアノ~ル

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  • 𠮷田恵輔
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阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし

 星野源が『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』(NHKのドラマの方)の木村多江安藤玉恵のお芝居に衝撃を受けていた。鳥肌が立ったそうだ。そこはやっぱり役者さんなんだなと思う。そういう見方する人いないでしょう。あのNHKのドラマ枠なのか、オダギリジョーがシナリオを書いて主演した『オリバーな犬』も面白かったし、なんか元気みたい。星野源オールナイトニッポンの裏側を撮った「100カメ」も面白かった。
 星野源オールナイトニッポン太田光真夜中のカーボーイの両方を聴いてるわけで、radikoは、ラジオを劇的に変えたな。
 「阿佐ヶ谷姉妹・・・」も「100カメ」もNHK+で移動中に観てたりする。TV erのCMだけなんであんなに固まるんだろう?。受け手川の問題じゃなさそうなんだけど。

2週間炎上

 ラジオを聴いていたら、太田光は今週もまだ炎上してるんだそうだ。
 選挙特番で政治家を批判したからと言っていちいち炎上してたら言論の自由とか保てないわけで、笑い事じゃないと思う。
 炎上って具体的にいえばまずは電凸だろうか?。太田光さんは個人事務所だから困ることだろう。あいちトリエンナーレの時のことなども併せて考えると、不特定多数の誰かからかかってくる電話って道具はもう廃れるんだろうな?。

『リスペクト』

 この映画でアレサ・フランクリンを演じているジェニファー・ハドソンが『ドリームガールズ』で鮮烈なデビューを果たしたのは2006年のことだそう。こういうことを言っても誰も得しないんだが、あの時は確かに主役のビヨンセを食っていた。記憶では、名前のクレジットも特別だった。
 しかし、だからと言って、そのまま、それこそアレサ・フランクリンのような大スターに上り詰めたかというと、当然ながらそうではなかった。それはすべての芸能に通じるのではないか。日本で例えれば、霜降り明星がスタートダッシュで飛び出したけれども、そのあと、ニューヨークやマヂカルラブリーに抜き返されるみたいなことはやはりある。
 アレサ・フランクリンがなかなかヒットが出ずに苦労する、ニューヨークに出たばかりの頃のエピソードは、だから、ジェニファー・ハドソンと重なるところもあるような気がした。
 今回のジェニファー・ハドソンのアレサ役は、アレサ・フランクリン自身が彼女を指定していたと公式サイトにあった。アレサ・フランクリンの半生を綴った伝記としても、ジェニファー・ハドソンのギグとしても、どちらからも楽しめる。というより、どちらにも、引っ張らられる緊張感がある。そうでないと、たとえば、「歌のとこは口パクで、アレサ・フランクリンの歌を入れとけばいいや」って作り方だったら、魅力は半減してただろう。
 『JUDY』を思い出してみるとわかりやすいんじゃないか。ジュディ・ガーランドの伝記映画ではあるんだけれども、ジュディ・ガーランドを演じたレネー・ゼルヴィガーを、観客はやはり観ている。レネー・ゼルヴィガー自身のパフォーマンスでなければ、あんなに受けなかっただろうと思う。ジュディ・ガーランドのドキュメンタリーとはやはり違う。
 監督も黒人女性のリーズル・トミーという南アメリカの人だそうで、そのせいか、アフリカ系アメリカ人の心理の動きがものすごく微細にリアルに感じられた。フォレスト・ウィテカーが、アレサ・フランクリンの父のCL・フランクリン師を演じているのだけれども、ニューヨークのプロデューサー、ジョン・ハモンドにアレサを紹介する会話の、微妙にズレた感じ。とか、アレサの最初の旦那さんのテッド・ホワイトが、怒りの発作に囚われる、その感じ。どうしようもない男の弱さの根っこに、100年以上積み重なった被差別の歴史を、この監督が読み取っている、読みの深さを感じさせた。
 『マレイニーのブラックボトム』は、ホントはこういう風に描かれるべきじゃなかったのかと思いさえした。映画の『マレイニーのブラックボトム』の黒人ミュージシャンたちは、ホントに黒人が演じているにもかかわらず、まるでミンストレルのような印象を私は受けてしまった。「ブラック・ミンストレル」というのが実際にもあったそうだ。
 もしかしたら、アメリカ人の監督だと、手癖として描いてしまうのかもしれない「黒人」というサインが一切なく、被差別の歴史が人の心に刻んだ傷と、そこから抜け出そうとするあがきとして描かれているのが新鮮に思われた。日本語の字幕では「虫」と訳されていた、心に巣食う何かが顔を出してしまうその個人としての現実が、同時に歴史が刻んだ傷でもあるというその描写は、もしかしたら日本人だからよくわかるのかもしれないとふと思いもした。
 アレサ・フランクリンといえば、1972年に撮影されたゴスペルのライブ映画『アメイジング・グレイス』が、49年ぶりに公開されたばかりだが、あの冒頭の部分が『ボヘミアン・ラプソディ』ばりに忠実に再現されていた。たぶんあれも一緒に観るとさらに味わい深いだろう。
 「リスペクト」というタイトルはアレサ・フランクリンの楽曲のタイトルから取られている。ジェニファー・ハドソンによるサントラ盤ももちろん発売される。この選曲も素晴らしく、字幕に訳された歌詞を読んでいると、まるでアレサ・フランクリン伝という歌劇のために書き下ろされたのかと思うほど私小説的であることに気付かされる。それは曲だけ聞いていては気づかなかったことだと思う。

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公明党の非・国民政党化、共産党の国民政党化

 今回の選挙は、天候のせいもあり、投票率55%という全くの無風選挙、しかも、岸田内閣発足直後で、政権の色もない、無風無色の選挙なので、各政党の実力がそのまま出たと言えるのだろう。もちろんその前に55%の投票率が、日本国民の政治に対する姿勢もそのまま表してもいる。
 逆にそんな無風選挙なので、そこでちょっとでも目を引く特異な事例は、なんらかの傾向を示唆していると見ていいんだろう。
 まず第一点は、甘利明小選挙区での敗北だろう。党の幹事長という選挙を取り仕切る立場の敗北には、岸田内閣が人事面で安倍内閣をそのまま受け継いだことに対する、言い換えれば、安倍政治に対する一定の忌避感が見て取れると言えるだろう。
 ちなみに、甘利明の選挙区は私の選挙区でもあり、参議院では三原じゅん子という悪夢のような選挙区だったので、今回の結果には胸を撫で下ろしている。
 第二に挙げられるのは、維新の躍進だろう。維新の会は、なんだかんだ言われながら、結党以来の姿勢がぶれていない。保守陣営の中で、ほぼ極右化した自民党とは一線を画していると評価されて、自民党に批判的な保守票を集めたのだろう。「維新の会」というおどろおどろしいネーミングに目をつぶると、地方政治への取り組みからも、イメージより実はリベラルな党風であることがわかる。
 今後は、もちろん誰もわからないものの、自民党が単独で過半数を維持する実力がある現状では、党の存在意義のためにも、自民との違いを鮮明にしていくだろうし、そうしてきた結果が評価されたとも言えるだろう。
 第三には、立憲民主党の惨敗は、野党間の選挙協力があった上でのこの惨敗だから、この政党がいかに足腰が弱いか、風だのみかを示している。
 まあ、立憲民主党の成立自体が前回の選挙の時の、希望の党結成をめぐるすったもんだの結果であることを考えれば、風が吹かなければ、この程度のことなのはむしろ当然で、これは維新の会の足腰の強さと好対照をなしている。しかし、維新の会もそもそもは橋下徹な立ち上げた地方政党だったことを考えれば、立憲民主党もここからぶれずに支持基盤を広げていく努力をする、よいモチベーションになるだろう。
 勝手に極右化した自民党に対する批判票は立憲民主党に集まりそうなものだが、それは維新の会に向かったようだ。立憲民主党は、もう少し左派と見做されているようだ。野党共闘が奏功したかどうか分かりにくいが、立憲民主党についてはそれが無ければもっと負けていたと見える。左派ということなら共産党の方が支持基盤が盤石だからである。
 共産党は、自民党の極右化のために極左というイメージがなくなった。ソ連崩壊から30年が経ち、日本共産党は国民政党になりつつあるんだろう。
 これに対して、今回の選挙では負けなかったものの(というか、いつも負けないのだが)、公明党は国民政党の立場からは後退したと見えた。全くの無風選挙で自民党単独過半数を獲得する現状で、公明党はいったいそこで何をしているのか?。ほぼ存在意義がわからない。
 公明党が政権内にとどまる間に、自民党はどんどん極右化した。政権内でバランサーの役目を果たしたとみなす有権者はいないだろう。何度も言うように、戦前の日本を泥沼の戦争に導いたのは日蓮主義者たちであった。従来、創価学会は、そうした日蓮主義に対して批判的だとみなされてきたが、極右化した自民党と連携し続ける姿勢は、戦前の日蓮主義を思い起こさせる。
 ちなみに戦争を拡大させた思想的背景であった「八紘一宇」は、日蓮主義者である田中智学の思想であった。その「八紘一宇」を三原じゅん子が公然と選挙で標榜して、池上彰を唖然とさせたのだが、その背景に創価学会日蓮主義化を見ておいた方が良いのかもしれない。
 国民政党であることを諦めた公明党の姿には、日蓮主義者と靖國信者の結託以外の構造は見えてこない。つまり、今回の選挙では、共産党の国民政党化と公明党の非・国民政党化という対照的な構造がみてとれた。一般大衆が共産党公明党どちらに警戒心を抱くだろうか?。繰り返しになるが、公明党が政権でバランサーの役割を果たしているなら、自民党がここまで極右化しただろうか?。
 この公明党共産党のイメージの逆転を第四の注目点として挙げたい。

『くじらびと』オススメ

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 石川梵監督の『くじらびと』は、100年に1本出会えるかどうかという名画なんだと思う。おそらくそれは石川梵監督自身がいちばんよくわかっているのだろう。そして、おそらくそれが伝わらないこともまたよく分かっていてそれが非常に悔しいだろうと思う。
 環太平洋の小さな島で、連綿と続いてきた鯨漁の伝統が消えようとしている。その最後の瞬間を、驚くべき迫力の映像で捉えている。
 映画を観た人に「大丈夫だったんですか?」と訊かれるという。実際には舟から落ちているそうだ。3Dでもないのに観ているだけでもシートの上で思わず身をかわした。
 奇跡的なのは、撮影の技術がちょうど間に合ったということもある。つまり、ドローンとGoProの普及によって、舟の下に回り込む鯨の姿がありありと見える。そして、落ちた海中ではGoProとクジラの目が合うのだ。
 ラマファと呼ばれる鯨漁師たちは、鯨の目を見ないようにしているそうだ。目が合うと足がすくむ。「死ぬ時に目を閉じる魚」は鯨だけだと彼らは語っていた。その目を閉じる瞬間もまた石川梵のカメラは捉えている。

 石川梵監督の前作『世界で一番美しい村』は、今でも心に残っている。村全体で行うお葬式がとても印象的だった。
 実は、カメラマン石川梵の東日本大震災の時の写真展「the DAYS after」も見ていたことを思い出した。吉祥寺の美術館だった。

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 その程度のことでファンと名乗るのは烏滸がましいだろうが、それにしても、舞台挨拶があるとあらかじめ知っていたらカメラを持参したところだった。
 あつぎのえいがかんkikiでは、ときどきこういう舞台挨拶にぶつかる。
 マスコミ関係者でもあるまいし舞台挨拶はおまけみたいなものだと思っているので、それを目掛けていく場合はまずなくて、毎回、出会い頭で、カメラを持ってればよかったと悔やむばかりだ。
 特に今回は撮影の裏話が興味深かったので、残せなかったのが残念だ。
 石川梵監督は、本質的にカメラマンなので映像が良い。映像に語らせることができるかどうかは大きい。
 特に、今回の『くじらびと』は、もう二度と撮れないだろう映像満載だが、扱っている題材が鯨漁なので、差別に阻まれて、欧米で評価を得られるかどうかはわからない。
 エーメンという少年が、将来、ラマファになりたいというと、両親が「学校に行ったほうがいい」と、まるで日本人みたいなことを言うのが不思議だった。それは、石川梵監督の話によると、まあこんな小さな村にまで反捕鯨団体が入り込んできていて、捕鯨の妨害をするそうなのだ。彼らは網を与えてこれで魚を取ることを強要するそうなのだが、それでは島は食べていけない。鯨漁を続けていければ食える。そうして生きてきた海洋民の村人に、西洋風の生き方を強要する権利が、なぜあると思い込んでいるのかまったく理解できないが、そういう彼らが、映画の格付けを牛耳っているのが現実には違いない。
 それで、バットマンがジョーカーをやっつけるのを観ては、正義がどうの、悪がどうのとのたまっている。笑わせる。
 死に瀕した鯨が瞑目する瞬間、銛を撃たれた鯨を助けようと泳ぎよる仲間の鯨の巨大な影、鯨に海底に引き込まれて死んだ男の葬儀の、その妻子、その父。
 『世界でいちばん美しい村』の公開が2017年だった。この『くじらびと』の企画は、実はその同じ年から始まっている。しかし、映画の中には1994年というから、Windows95もなく、阪神淡路大震災もまだ起きていない、そんな頃から、石川梵がこの村を取材していた映像がある。
 この映画が可能になったのは、ドローンやGoProといった技術革新だけでなく、石川梵と村人との間で長い時間をかけて築き上げられた信頼関係があってこそのことだとわかる。
 この映画は、とにかく別格であり破格である。こういう映画が評価されない、などということは、万が一にもあるまじきことだと思う。