太田光 統一教会 擁護

 太田光統一教会を擁護している。熱心に統一教会の取材活動してきた鈴木エイト氏に「悪いカルトと認定できてない」と御託を述べたらしいが、50年も前から「悪いカルト」なのに未だに「認定できていない」のが自民党とズブズブの関係だからじゃないのかというところが今問題にされてるわけ。
 太田光が「擁護」してるのは統一教会の幹部であって、それは信者のためにはならない。信者救出のために活動してきたのはむしろ紀藤弁護士であり鈴木エイトさんの方なのだ。太田光が鈴木エイト相手に説教たれてるのは何のつもりなのか滑稽を通り越しておぞましいんだけど、もし意識的に論点をずらしているのだとすれば、自民党の先生たちのためにはありがたいことだろう。安倍さんも草葉の陰で喜んでいるだろう。
 マスコミは、安倍晋三暗殺当初は、統一教会の名前を出すのさえ戸惑っていたくせに、いったん報道し始めると、重箱の隅々までほじくり返す勢いで、機械的に網羅し始めるので、かえって焦点がぼやける。
 太田光ほんこんもどうでもいいんであって、問題は、立法府がカルトに汚染されていることなのである。政治が国民のためでなくカルトのために動き始める。下村文科大臣が弁護士会の再三の要請を無視して、教団の改名を認めた事例などはまさにその典型例だろう。
 しかも、自民党改憲案が統一教会改憲案とほぼ同じだという。太田光は『憲法9条を世界遺産に』なんて本まで出してるくせに、平気な顔で統一教会を擁護しているのには言葉を失う。

太田光、旧統一教会問題の議論で注意「悪いカルトと認定はできていない…議論も注意深くやらないと難しい」

わざと論点をずらしてるのでなければ哀れと言うしかない。最大の問題は、わたしたちの立法府がカルトに汚染されていることです。「今の時点で統一教会は宗教法人なわけですよね」じゃないのよ。

2022/08/31 23:44

 

『私は最悪』

 この映画は

私は最悪

ここから始まる。大学に入って辞めて、みたいなところから始めないのはさすがだと思った。
 パートナーの新刊披露パーティーで所在なげにしているこの女性が主人公なのであって、この女性のクロニクルではない。幾多の名作と同じく、いきなり核心から入っているわけ。「この映画はプロローグ、エピローグと十二の章からなる」などというキャプションも、ナレーションと台詞が重なる演出も、主人公の性格によく似合っている。つまりはややこしい女なのだ。
 ちなみに、主人公のパートナーの漫画家を演じているアンデルシュ・ダニエルセン・リーは、こないだ『ベルイマン島にて』にも出ていた。


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 今回とは逆の役どころだった。あの時は英語だったので気が付かなかったが、ノルウェーの人だったみたい。今回は全編ノルウェー語。ノルウェー語の字幕をつけてくれる人がいて、こういういい映画が見られてほんとにありがたい。誰が字幕をつけてくれてるんだろうかと調べてみたら、吉川美奈子さんだった。何カ国語できるんでしょうね。
 『ベルイマン島にて』のティム・ロスの役をこの映画ではアンデルシュ・ダニエルセン・リーが演じている。ただ、今回の場合、タイトル通りに主人公のユリヤが「最悪」、少なくともガールズトークでは槍玉に上がるかも。
 とはいえ、悪の基準がネットでの炎上にすぎない現代では、「最悪」もかなり値崩れしてしまっていて、この「最悪」も慎重により分ける必要がある。悲しさにも似てるし、寂しさにも似ている。してもしょうがない後悔にも似ている。
 ところで、アンデルシュさんが演じている漫画家は、ロバート・クラムをモデルにしている気がするけど、違うのかな?。アンダーグラウンドの漫画家を知らないだけかもしれない。ただ、ユリヤが選ぶのはそういう、嘘をつかない男である必要があった。


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 ユリヤは、成績がいいからってだけで入った医学部に馴染めず、うっかり「自分探し」の闇にハマってしまう。母親は放任主義、幼い頃に別れた父親は彼女に興味がない。
 頭も顔もいいので誰も、おそらく彼女自身も気がついてないけれど、ユリヤは自分に自信を持てない。自由奔放に見えながら、じつはもがいている。こういう現代の女性像を描いた映画は、ありそうで意外になかったのかもしれない。
 オスロの街並みは、そのせいかどうか、白夜とフィヨルドを除くと、日本の地方都市に見えなくもなかった。ネットがフラット化した世界に生きる孤独。選択しているようでそれもじつは必然にすぎないような、自分の小ささが可視化されてしまう社会を世界は共有しているのだろう。


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『荒野に希望の灯をともす』

 中村哲医師のドキュメンタリー映画、劇場版『荒野に希望の灯をともす』が、あつぎのえいがかんkikiにて9月2日まで上映中なので、見逃した方は是非ご覧になってください。
 「強い」という言葉の意味を突き詰めていくと中村哲医師のような生き方に辿り着くように思う。マルワリード用水路の建設に着手するとなった時、小高い丘の上から用水路の到達予定地を遠望すると、それははるかな山のふもとで、その間には旱魃で荒れた土漠が広がっているだけだった。
 その時、中村哲医師は「もしこの荒野が緑野に変わるなら、喜んで神を信じよう。」と思ったそうである。私に言わせれば、このように神と契約できる人間が強い人なのである。アフガニスタンの大地を緑野にするために、神と契約を交わした人がここにいたということは銘記しておきたい。
 谷津賢二監督の舞台挨拶があったので一部録画した。音声が悪いのだけれどもご容赦ください。



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『日本は「右傾化」したのか』

 こないだの小熊英二の日本記者クラブでの分析があまりに鋭かったので、これを買って読んでみた。
 日本人一般が右傾化したといえるデータはほとんどないそうだ。ただ、自民党は右傾化したと言って間違いなさそうで、その結果が今後国民生活に降りてくる可能性はある。
 現に今も、女性の社会進出、夫婦別姓同性婚、外国人の受け入れなど、実は、単に経済生活の上からも改善されるべき問題が、国民一般はそれを望んでいるにもかかわらず、自民党の右傾化のためにそれが実現しないという齟齬をきたしている。これはかなりやばい。
 今は、統一教会日本会議による自民党汚染が可視化されているので、この本が出版された2020年よりさらにやばいと感じる。ヒトラーが首相の座に着いた時、ナチ党の議席は3分の1にも満たなかった。ナチの責任をドイツ国民全般に負わせるわけにはいかない。当時のドイツ国民がナチ化したわけではなかった。しかし、その後の一年半でヒトラーは議会政治を葬り去った。
 その時、標的にされたのはユダヤ人ではなく共産党だった。勝共連合なんて、「まだ、いたんだ?!」って感じがしたが、どう考えても東西冷戦の亡霊だろう。それを言えば、日本会議は太平洋戦争の亡霊な訳だから、日本人の変化に対応できない弱さみたいのがよくわかる。マスクと患者の全数把握もいつまで続けるんだろうって感じ。ところが、その亡霊が現実の政治を動かすのだから笑えない。
 ネトウヨはネット民の1%程度、そのシンパは国民全体でも5%程度と言われている。しかし、それが政治を動かす惧れがある。声のでかいバカに注意する必要がある。冗談ではなく、今回の山上徹也のテロに感謝しなければならないかもしれない。暗殺直後は全マスコミが統一教会の名前を出すことさえ憚っていたのである。そんなマスコミに言論を語る資格があるだろうか?。声のでかいバカとダンマリを決め込むマスコミによって政治が捻じ曲げられているのが現状ではないだろうか。
 そういうマスコミが「国民の右傾化」を口にするのであるが、これは振り返ると、自民党が選挙に勝つたびにそう言われてきた歴史があるそうだ。実際には、政権交代選挙まで野党が勝ったことは一度もないわけだから、その間の自民党の票の増減を「国民右傾化」に責任転嫁されてきた訳であった。そして、記憶に新しいだろうが、民主党が下野すると、また国民が右傾化したことにされている。
 しかし、実は、政権交代選挙で右傾化したのは国民ではなく自民党だった。あの政権交代選挙は、麻生太郎が国民の神経を逆撫でしたせいだったのが事実じゃないだろうか。勝ったといえるほどの主体性は民主党にはなかった。
 だから、民主党政権の運営には慎重さと謙虚さが求められるはずだったのに、田原総一郎に「政策に興味がない」と評される小沢一郎は、選挙に勝つや、今度は党内抗争のために、公然と公約を破棄した。
 そうして、国民の支持を失い、官僚に舐められ、党内は分裂して、民主党は下野した。だけでなく、民主党自体が消えてなくなった。小沢一郎の著書『日本改造計画』はほとんどゴーストライターが書いていたと暴露されるおまけ付きだった。
 となると、再び政権の座につこうとする政党は、それが自民党でなかろうとも、自分たちは民主党とは違うと主張するのは当然だった。つまり右傾化は差別化にすぎなかった。
 もう一度整理すると、小泉純一郎郵政選挙で圧倒的に勝利した自民党が、その後の政権運営で国民の支持を失い、大敗北を喫した。これを勘違いした民主党がさらに政権運営に迷走して、国民の信を失うと、これを国民のリベラル離れだと見なした自民党の中で、極右勢力が急進したという流れである。
 つまり、この間、まともなビジョンを持った政治家はいなくて、票の増減で右だ左だと言いつづけた末に、最終的に民主党が自爆したために、後に残った自民党は差別化として右傾化せざるえなかったということなのである。ちなみに定義に正確になるなら、こういう事態を指してポピュリズムというらしい。
 
 この流れは、以前に読んだ安田浩一の『「右翼」の戦後史』にもよく似ている。
 日本の右翼左翼が欧米のそれとは様相を異にしているとはよく言われる。では、我が国の近代化の端緒となった明治維新とはそもそも右翼左翼どちらなのか?。言うまでもなくどちらでもない。西洋とのコンタクトを機に薩長同盟徳川幕府をひきずりおろしただけだ。そうして始めた近代化は「和魂洋才」と言った。しかし、そんな都合のいい近代化はない。当然、どんどん目新しい思想が入ってくる。このとき入ってきた思想を軒並み「左翼」と呼んだのであった。つまり「和魂」じゃないのが「左翼」だったので、キリスト教から共産主義まで体制に都合の悪いものは全部「左翼」だった。
 他者を「左翼」と呼んだ手前、自分たちは「右翼」と名乗らざるえなかった。こうした経緯で、日本の右翼には思想がなく、左翼には実体がない。戦後は東西冷戦の構造がこれに外から枠をはめるが、選挙の実態は自民党の信任選挙にすぎなくて、実質的な対立軸は自民党内の派閥が担っていた。小泉純一郎が派閥を破壊して執行部に権力を集中した後、政権交代が起こったのは自然だし健全だったのだろう。しかし、民主党政権が迷走し瓦解した結果、その反作用として自民党は右傾化するしかなかった。
 今のところ、右傾化したとはとても言えない日本人だが、ただひとつ、排外主義化しつつあるというデータが気になる。たとえば、2020年の都知事選で日本第一党桜井誠が17万8784票を獲得した。また、「特定の集団に対する差別発言を取り締まる法律を制定すべき」との意見に対して肯定する人が25%、否定する人が30%だったそうだ。ただ、これは2013年(10年前)の調査ではあるが。
 しかも、この排外意識はほぼ韓国に向かっているそうだ。一時期は中国に対しても強い排外意識があったようだが、それは、思ったほど長続きしないものらしい。
 これは一方では分かりすぎるほどわかる。個人的には、慰安婦問題で、いかにも人権問題を扱っているかの態度をとりながら、実はショーヴィニズムにすぎないのが見え見えなのに、日本国内の左派勢力がこれにあっさりと乗せられてしまうという愚かしさ。しかも何度合意してもすぐにそれを反故にしていかにもこちらが不誠実であるかのように騒ぎ立てる、その彼らの心理の底にあるものが、今度の統一教会のことでよく分かった。
 旧・統一教会は安倍政権と友好だった、一方で、旧・挺対協は安倍政権と対立していた。ところが、彼らの心の底にあるものは同じだったのである。それについては先日書いたので繰り返さない。

あなたはまだ、真っ黒なものから純白と牛乳と無垢なるものを作りだす魔術師の傑作について、何も語っていないではないか。──彼らの技が洗練をきわめていることに、その大胆で、精緻で、機知に富む、噓まみれの芸当に気づかなかったのか?  よく注意して見るがよい!  復讐と憎悪に満ちたこの地下室の獣たちは──彼らは復讐と憎悪から何を作りだしているだろうか。あなたは彼らの語る言葉を、かつて耳にしたことがあるだろうか。彼らの言葉だけを信用していたならば、あなたはじつはルサンチマンの人間に囲まれていることに気づいただろうか?……
道徳の系譜学』第一論文より

 韓国人全体がこうだとは言えないだろう。しかし、こうしたルサンチマンがもはや彼らの文化になってしまっている。慰安婦問題は、じつは、韓国の右翼と日本の右翼の、歴史修正主義者同士が、お互いのショーヴィニズムを戦わせていたにすぎなかった。問題は、そうした韓国の極右に、日本のリベラルが乗っかったことだろう。彼らには慰安婦問題が、いかにも人権問題、いかにも女性問題に見えた、そこに、彼ら左派の心理のいちばん醜いところが露呈して見えると、私は思う。そして、おそらく多くの日本人にそう見えた。それが、彼らが力を失ったひとつの原因でもあるだろう。
 言い換えれば、冷戦終結でそもそも存在意義を失っていた左派が、右派と同じようにポピュリズムに走った結果、うっかり手を出したのが韓国の極右だった。であれば、ごくごく真っ当な市民層からの支持を失うのは当然だった。
 まあ、韓国はもうどうでもいいが、それを別にしても、排外主義に寛容になっていくのは問題だと思う。名古屋入管のラスナヤケ・リヤナゲ・ウィシュマ・サンダマリさん殺害事件は、日本のホロコーストだと思っている。日本の官僚組織が何の罪もない人を拷問死させたことは心から恥ずかしい。こんな事件を起こした政権がびくともしないのは、まともな民主主義国家ではありえないことだろう。少なくとも、ウィシュマさんの事件を聞いて心震わせなかったような人がリベラルの支持を得られるわけがない。左派の人たちには、左翼に囚われるのをやめて、真っ当な市民の現実の姿を捉え直す努力が必要だと思う。

『FLEE』

 『FLEE』は、デンマークのアニメ映画でしかもドキュメンタリーである。
 この映画がドキュメンタリーをアニメで撮った理由は、主人公であるアフガニスタン難民の男性の顔を晒さないためなので、本人が特定されないシーンなどは実写が混じることもある。こういう、実写からアニメのグラデーションが、アニメシーンにもかえって生々しい印象を与えている。
 この映画の主人公が学者として成功を収めているのは奇跡的な一例なんだろう。監督との対話形式で話が進むのだけれど、「確認するけど、お姉さんたちは死ななかったんだよね?」と尋ねたりする。観客としても、死んだだろうと思った。というのも『海は燃えている』というジャンフランコ・ロッシのドキュメンタリーで、全く同じシチュエーションで死体の山となって発見された難民たちを見たことがあるからだ。
 またロシアからの逃避行のさいに、難民一行の中の老婆が、足手まといになって殺されかかるシーンがある。それは主人公の家族ではないが、主人公がそこに自分たちを投影しているのは間違いない。その時もたまたま老婆が殺されることはなかったが、そもそも、主人公たちがロシアに逃れられたのすらギリギリのタイミングだったし、それにアフガニスタンで離れ離れになった彼の父親はいまだに行方不明のままである。
 『海は燃えている』で折り重なって死んでいた、あの難民たちと、この映画の主人公とどちらが多数派なのかはいうまでもない。にもかかわらず、今ではプリンストン大学からポスドクのオファーがあるような存在になった彼ですら顔を隠さなければならないことが、実は、逃避行の厳しさよりも、この映画が伝えている世界の現状なんだろう。映画は「デンマークよ、彼を受け入れた頃のことを思い出してほしい」と締めくくられる。時代がどんどん悪くなっている。
 そして、これは他人事ではなく、日本ではさらにひどいのは、名古屋入管でのウィシュマ・サンデマリさんの事件は、あれは日本の役人が難民を殺してる。先進国でこんなひどい話は聞いたことがない。
 日本移民問題をあつかった映画には『マイスモールランド』があるのだが、ここでも結局、本人たちを登場させられないために役者さんを使わざるをえなかった。ドキュメンタリー映画の『牛久』は観たけれども、『マイスモールランド』はその意味でちょっと観る気にならなかった。日本の状況はつまり難民を映画にすらできないという状況で、この映画の状況よりはるかに酷いことを肝に銘じておくべきだろう。


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旧・統一教会と旧・挺対協

 『反キリスト者』から『道徳の系譜学』へと遡ってみた。ニーチェはそもそも牧師の家に生まれ、最初に進んだ道は神学であった。
 文章中、現代のコンプライアンス感覚からすると、引っかかるところはいくらも出てくるに違いないが、ここに展開されているキリスト教批判は、彼自身のアイデンティティにかかわる問題だったこと、そして、なんと言っても彼が20世紀を生きていないことを考慮しなければならない。
 おそらく、今の誰もニーチェほど深くキリスト教徒であることは不可能だろう。それに、逆説的に言えば、ニーチェと同じくらいに深い信仰心(と言って悪ければ「信仰についての思索」)があるなら、この晩年のキリスト教批判を皮相のヘイトと聞き違えるわけはないと思う。
 特に、明治時代に始まるキリスト教文化と東洋文化の切実な対立を経験した日本人にとっては、ニーチェキリスト教批判はなおさら深く響く。
 日本には、戦国時代と明治時代の二度に渡ってキリスト教が侵入する機会があったのだが、結局のところ、二度ともごく小規模にしか受容されなかった。
 これにはさまざまな要因が考えられるだろうが、つまりは日本はその頃までに十分に仏教国だったことが大きいと思える。
 鎌倉仏教の教義の深さに比べて、キリスト教の教義はいささかお粗末に思える。たぶん、戦国時代の人たちにもそう見えただろう。宣教師たちは、持参した時計を見せて「この時計を動かしたように世界を動かした人がいる」などというコケオドシをやったそうだ。戦国大名たちは苦笑いしただろう。
 日本に来たイエズス会の布教者たちは「日本人は有望だ」と思ったというが、それは、仏教や儒教などの歴史的思想的背景があるからだと、なぜ思わなかったのだろうか。ひとつには、宣教師たちには、仏教などの東洋思想についての知識がまるでなかった。だけでなく、そのくせ、キリスト教以外の宗教を未開の迷信にすぎないと決めつけていた。そんな態度で布教が成功するはずがない。
 戦国時代のその頃に比べれば、明治時代の方がはるかに危なかった。徳川末期のその頃は、寺院や僧侶の腐敗が激しかったと言われている。廃仏毀釈の狂乱にはそんな背景もあっただろう。にもかかわらず、その時も日本にキリスト教が定着したとは言いがたい。
 確かに、仏教はインド発祥の宗教であり、儒教は中国伝来の思想だったが、西洋との科学技術の差が大きく開いていたその頃でさえ、キリスト教を受け入れない程度には、宗教的なバックボーンが、日本人にはすでに身についていたというべきだろう。それが鎌倉仏教であり本地垂迹神仏混淆だったのである(その意味でも、明治政府の神仏分離策は愚かだった。国家神道が国を滅ぼすのも当然だった)。
 何を言いたいかというと、このところの統一教会の報道を聞くにつけて、韓国は、世界で最も新参にキリスト教に改宗した国なんだなぁと、つくづく思ったからなのだ。
 「韓国はアダム国家で日本はエヴァ国家」?。笑止というしかない。
 ニーチェのいうルサンチマンは単なる恨みつらみではない。恨みつらみを「正義」に体系化してしまうことである。韓国人が日本人を恨んでいる、ならこれはよくわかる。しかし、それだけではなく、自分達の怨みを「正義」だと思い込んでいる。
 日本人を騙して勧誘し、洗脳して金を巻き上げる。それを正義だと信じて疑わない、それこそニーチェの言ったルサンチマンそのものだ。

このまなざしは溜め息をつくように語るのだ。「わたしがもっと別の人間だったらよかったのに!  でももう望みはない。わたしはいまあるわたしでしかない。このわたしからどうすれば逃れることができるだろうか?  ともかく、わたしは自分にうんざりする!」……  このような自己への軽蔑の土壌に、ほんものの沼地に、あらゆる雑草と毒草が繁茂する。すべてが縮こまっていて、強い下心に動かされていて、不誠実で、しかも甘ったるいのだ。ここには復讐と怨念の蛆虫がうごめいている。この空気には、秘密と内緒ごとの匂いがたちこめている。ここにはつねに悪意に満ちた陰謀の〈網〉が張られている。

しかし彼らはそもそも何を望んでいるのだろうか?  彼らはせめて正義と愛と智恵と優越感をひけらかそうと、望んでいるのだ。それがこの「もっとも下劣な者たち」、この病人たちの野心なのだ!  そしてこの野心は、彼らをいかに巧みな者にすることだろう!  彼ら贋金造りが、どれほど巧みに徳の刻印を、徳の響きを、徳の黄金の響きを模倣するか、その手口にはただ感嘆するばかりである。

彼らは主張する、「われわれだけが善人なのだ。正しき者なのだ、われわれだけが善意の人間なのだ」と。

彼らのうちには、裁判官を装った復讐の鬼たちがうようよしている。この復讐の鬼たちは、「正義」という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている。

 ニーチェのこの烈しいキリスト教批判を、キリスト教全般にすぐに当てはめるのには躊躇してしまう。が、世界で最も新参のキリスト教徒(なのか?)の統一教会には、ほぼそのまま彼らの出現を予言していたかのようなのである。
 これはまた、統一教会問題とならんで、もうひとつ日韓の間に横たわっている問題、慰安婦問題にも気づきを与えてくれる。慰安婦問題とは、前にも書いたとおり、実は慰安婦の問題ではない。元慰安婦の方たちには、女性のためのアジア平和国民基金の補償金を受けとってくれた方もいた。これを妨害したのが挺対協だった。慰安婦問題とは、実は、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)の問題にすぎない。しかも、奇しくもこの団体も「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」と名称変更している。
 こう考えると、慰安婦問題が解決しない理由は明白になる。私たち日本人は「真実」を知りたいと考えているのに対して、彼らは「正義と愛と智恵と優越感をひけらかそうと、望んでいる」だけだ。「彼らは主張する、「われわれだけが善人なのだ。正しき者なのだ、われわれだけが善意の人間なのだ」と。」そして、「「正義」という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている。」
 彼らは真実に興味はない。都合の悪い事実には蓋をしてしまう。そして、出来の悪い彫刻を世界にばら撒いて、それを真実の代用品にしようとしている。慰安婦問題と統一教会の問題は実は同根だということがわかる。まさにニーチェのいうルサンチマンの道徳なのである。
 滑稽なのは、安倍晋三周辺のネトウヨたちだということになるだろう。いったい今彼らは自分たちのレゾンデートルを同定できるのだろうか?。「在日特権が」とか「反日が」とか言ったそのお仲間が、日本人を洗脳して巻き上げたカネを韓国に送っていたのである。未だに元気なネトウヨほんこんさんぐらいである。バカにされるのが平気なのはやはりほんとにバカなんだと思う。鬼越トマホークに「ダウンタウンのおまけ」と揶揄されるはずだ。
 それよりも安倍晋三という人物の頭はいったいどうなっていたのか?。理解に苦しむ。論理的にも倫理的にも完全に分裂している。右翼に殺されたらよかったのか、左翼に殺されたらよかったのか、まるでわからない。
 今、統一教会を批判するのは犯人の思惑通りだという人がいるらしいが、この状況で何が犯人の思惑なのか、どうして確言できるのかがわからない。犯人と面談でもしたのだろうか?。
 岸田内閣は、統一教会と関係のあった閣僚7名を排除したが、新閣僚にも7名が統一教会と関係していた。その上、副大臣政務官には16名の統一教会関係者がいるそうだ。これに加えて、日本会議創価学会がいるわけだから、これで憲法をいじられたらたまったものではない。どころか、一般的な法律ですら触ってほしくない。
 この統一教会の問題は、慰安婦問題と同じく、日韓間の外交問題でもある。元首相が殺される原因のひとつにもなったのだから、日本外交の手にはけっこう強力なカードが滑り込んだことになるが、内閣自体が統一教会に汚染されているのだからせっかくのカードも使える可能性はない。
 もうひとつ、付け加えるなら、もし、日本にも、右翼、左翼などという対立が存在するなら、安倍晋三が韓国のカルトと結んでいたと分かった以上、右翼は反安倍、反自民で動かなければならないはずだ。しかし、そうはならないだろう。何度も言うよに、日本には右翼も左翼もいないのである。