人質バッシャー

このところ私は、「人質バッシャーが・・・」なんて書いてきた。だが、ふと気が付いてみると、「人質バッシャー」なんていない。「今度はもっと怖いものを送るよーん」なんてハガキを送りつけるのは、明確な犯罪者である。

そういうことと、たとえば、賀曽利さんや曾野綾子などを一緒にしてはいけない。賀曽利さんがこの事件についてどういう事を書いていたのか、ちゃんと読んでおけば良かったと思う。HPを閉鎖したのは、考えてみるとジャーナリストとして、かなり重い判断であるはずだ。そこまでの必要があったのかどうか、今となっては判断のしようがない。

ゴールデンウイークに帰郷した電車で、ブログ関連の記事に惹かれて、週刊スパを買った。鴻上尚史のエッセーが、イラク人質事件にふれていて、それは、私の意見そのものに近かった。

その同じ雑誌に勝谷誠彦という人のコラムがあり、「パウエル発言やル・モンド記事に乗っかって浮かれるな」とあった。全くその通りだ。だが、少なくとも国内のメディア以外に「人質をたたく」論調があるだろうか?何と言われても私には異常に見える。少々判官贔屓になるのも仕方ない。

もう終わってしまったが、「宝島」に連載していたこの人のコラムが好きだったので、このついでに、ホームページを覗いてみた。一日4万件を超えるアクセスのある、人気サイトだそうだ。

まだちゃんと読んでいないが、ざっと読み通してみて複雑な気持ちになった。
まず、彼自身が、この事件以前にイラクで襲われた経験がある。事件については、今から見ると見当はずれのところもあり、的を射ているところもあり、いろいろだが、全体の印象としては、人質に批判的に見える。もちろん、むやみに罵倒しているのではない。妥当な批判だと思う。

だが、人生は皮肉なもので、この人の友人であり、この事件に関する『朝まで生テレビ』に一緒に出演さえした橋田信介さんが、イラクで殺されてしまった。他人というのは、結局無責任なもので、ここで私はちょっとクスッと来た。そこまで、かなり辛辣だったので、どうするんだろうと思ったからだ。まぁ、無関係な一読者なんてそんなものだ。しかし、運命の嘲笑は聞こえる。

さて、この不条理をどうやって克服するかだが、橋田信介さんの事件と、その前の2ケースでは、「そこに至る経緯が違う」と言うことでカッコをつけたようだ。ただ、どうだろうか?一連の事件が起こるまで、私は、この登場人物すべてを知らなかった。だからといって、勉強不足を嘆く気にもならない。ほとんどの人がそうではないのか?私にとっては、どのケースもそんなに価値の違いがあるとは思えない。というより、この種の事件に価値の差をつけること自体に違和感を感じる。経緯が違うのは当たり前だ。
それでも、これらの事件に価値の差があるというなら、「左翼、右翼のレッテル貼りをするな」といいながら、結局セクト主義に陥っていないだろうか?

この人のバイタリティーは、その後イラクに出かけて『イラク生残記』という本をものしたこと。
イラク生残記
かなり売れているそうだ。プロとして立派だと思う。たが、私には、彼のやっていることの方が、個人的動機に見える。単なる「プロの意地」に見える。プロの意地が悪いというのではない。節度のないプロが多い中で、立派だと思う。だが、そういうプロ意識はもういらない。そういうプロ意識が、先のようなセクト主義を生むのではないだろうか?

小林よしのりの時にも書いたが、「左翼が、右翼が、親米左派が、プロ市民が」と、うるさい。新語、造語という言葉があるが、私に言わせれば、これらは、「新死語」「造死語」だ。