斉藤真一

滑川博物館で、瞽女の画家として有名な、斉藤真一の展覧会を見る。1922年(大正11年)岡山生まれで、1994年に没している。享年七十二。赤という暖色が、冷たく見える。

面白いことに、フランス留学中の1959年、原付に乗ってイタリアへ、40日の旅行を敢行している。モーターツーリストがここにもひとり。留学中に、レナール・フジタと親交を結び、「日本に帰ったら、秋田や東北がいいから一生懸命に描きなさい」と励まされた。国吉康雄にも影響を受けた。ピエロの絵など、国吉康雄の「ミスターエース」かと思った。

瞽女という旅芸人の存在を、事実上発掘したのは、この人のようだ。スケッチにエッセーを添えた「絵日記」の原稿もいくつか拾い読みしたけれど、とてもじゃないけれど全部は読み切れない。くしくも、このブログによく出てくる地名、高田にまた出くわした。初めて瞽女を訪ねた町が、高田だったそうだ。20年昔、偶然通りかかった頃の直江津は、確かに瞽女が歩いていそうだった。荒海に抗して据えられた板塀の破れ目から、瞽女さんが出てきてもおかしくはなかった。

テレビがなかったころ、瞽女は商売として十分成立する、なかなか人気の娯楽だったのだろう。泉鏡花の小説や、古典落語なんかに、軒付けする芸人が出てくるが、そういう習俗が、戦後しばらくまで残っていたとしても、日本海側では不思議でない気がする。なんといっても、娯楽は少ない!

瞽女の荷物は総重量15キロ。それを担いで北陸の町を徒歩で巡った。「がっさい」というスタッフバッグがある。素材の違いこそあれ、モンベルのチューブコンテナと同じ発想だ。レインウエアは「トイ」といって漢字で書くと「桐油」、アブラギリの油を塗り込んだ麻布で、ビニール合羽が安く手にはいるようになっても信頼性で「トイ」が好まれていたそうだ。

まるで寒色に見える鮮烈な赤。日本海に沈む夕日は、凍てつくように見える。画面を支配する原初的な感情。画面を四分割したり、上下に区切ったりする油絵も見たことがない。斉藤真一は、発見だった。

夕日がきれいなので、早月川の河口に。鮭の遡上が始まっていた。カモメが群れをなしているので何事かと思うと、カモメ群vs.サケ群の壮絶な戦い。しかし、これは、サケに分が悪い。たぶん稚魚を放流していると思うのだが、上流にダムを造っておいて、放流されても、サケも迷惑ではなかろうか?とにかくサケの死屍累々たる有様。あたりは異臭が漂っていた。