名人 志ん生、そして志ん朝

名人―志ん生、そして志ん朝 (朝日選書)
小林信彦 著 『名人 志ん生、そして志ん朝』を読んだ。またまたゲバラは後回し。古今亭志ん朝の急逝に、取り乱しつつ編まれた感がある。小林信彦さんのファンとしては、若い時からの文章の変遷なども楽しめたりする。若い頃の文章は、やはり、ぎらついたところもある。

最近、『ハウルの動く城』について書いている文章で、ご自身と宮崎駿氏にふれて「枯れている」という言葉が出てきた。良くも悪くもとれる言葉だが、本人が枯れているというなら、枯れているのだろう。作家でも植物でもない身としては、想像してみるしかない。

古今亭志ん朝の死は、私にしてもショックだったが、その内容はまあ、米朝師匠がお元気なうちに、枝雀に続いて志ん朝までが、先に逝ってしまうとは・・・といったたぐいのもの。江戸前噺家さんで、お金を出して聞きに行ったのは、志ん朝師ただひとりだった。

しかし、江戸っ子、小林信彦にとってのショックは、比べモノにならない。何しろ、親が死んだ時より取り乱していたというのだから。

ジョン・レノンが死んだ時に、抱き合って泣いている、アメリカのデブ女、みたいなセンチメンタリズムは、私として内心眉唾物だと思っているが、志ん朝の死にショックを受ける小林信彦という図は、江戸っ子衰亡史のラストを飾るエピソードとしてみれば、納得もできる。

前にもふれたが三田村鳶魚が「キ○○○みたいなもの」と形容した江戸っ子は、江戸時代の江戸に暮らしているホンモノの江戸っ子だった。ご存じの通り、明治維新で江戸という地域が失われて以来、江戸っ子はその数を減らし続け、今では絶滅の危機に瀕している。小林信彦さんや三宅祐司は、おそらく「the LAST 江戸っ子」のはずだ。

そんな彼らにとっての志ん朝は、カルチャーそのものだったはずで、それが突然失われては、親の死より取り乱しても当然だ。

引用

今回、つくづく思ったのは、江戸言葉→東京言葉の妙味である。
落語はストーリーが面白いに越したことはないが、詰まるところは<言葉の面白さ>だと思う。
このあいだ、若い落語家が、「生まれながらにして東京言葉をしゃべっていたのは、もう志ん朝師匠だけなんだから」とラジオでぼやいていたが、江戸落語というのは、東京生まれの人間が、自分たちの言葉をうまく操って笑わせてくれるのを待っているのだから、<言葉の面白さ>がキイポイントになる。

もう東京にも、江戸っ子なんてほとんど存在してはいないはずだ。江戸がないのに、江戸っ子だけ存在しているはずがない。バブル時代、横行する地上げを取り上げたTV番組で、地上げをする側とされる側、両方のインタビューを見た。これがまぁ、悲しいことに、地上げする側は、つぶやきしろう的ななまり、そして、地上げされる側は、これまた見事な江戸弁のご老人だった。ひとつの文化の終焉に立ち会っているのだなと実感した。

私は、もちろん江戸っ子ではない。一応、関西人ということにしているが、実のところはそれでもない。今、痛切に実感しているのは、自分の根っこになる言葉を持っていないことだ。実は、こうして、細々と日記を書き続けているのは、その空白を埋める作業だと思っている。書き言葉で、話し言葉の補填をしている。ゲーテも言っている。「書くことは話すことの情けない代用に過ぎない」と。

私が落語を好きなのは、しかも、江戸、上方を問わず好きなのだが、こうした根っこのしっかりした話し言葉に憧れているためだろう。小林信彦さんが言うとおり、上方落語松鶴米朝の努力で見事に復興した。枝雀亡き後も、まだ吉朝がいるし、雀三郎もいる。関西に帰るとぴあを買って、落語会をチェックしている。

江戸っ子という視点で見ると、古今亭志ん生という人の人気もよく分かる。名人なのはもちろんだが、それだけではない。ろれつが回らなくなってからも、客はとにかく志ん生を見たがった。彼らは、ホンモノの江戸っ子を見たかったのだ。彼ら自身も江戸っ子なのだが、カルチャーとしての江戸は、志ん生の中にしか残っていなかったのだ。