ところで、ダルビッシュ有は、何で関西弁なの?

故・中島らもによると、大阪弁はすでに言葉としての寿命をおえているそうだ。そういいつつ、あの人の言葉はどう聞いても、関西アクセントではあった。関西アクセントと大阪弁は、確かに意味が違うけど、あの口調で「大阪弁は、もう言葉としての寿命を終えてます」といわれると、どことなくユーモラスだ。

最近、小林信彦さんと江戸っ子に興味がわいてきているのは、富山が長くなって、都会を忘れかけているせいじゃないかと思いついた。都会と田舎の間にあるのは価値の差ではない。それだからこそ、その違和感は余計に孤独を募らせる。それは、声高に主張できる種類のことではない。なんとなく居心地が悪い、みたいなことの積み重ねに過ぎない。

小林信彦を、笑芸の世界のスタンダードだ、と思っていた時には、江戸っ子、小林信彦の居心地の悪さに気が付かなかった。どうしてダウンタウンを認めないんだろう?と不思議に思っていたが、それは関心外であってもちっとも不思議でなかった。『名人志ん生そして志ん朝』を読むと、当時、B&Bみたいな泡沫芸人にまで言及している。小林信彦さん自身、笑いのオーソリティー的な意識があったためだと思う。事実そうだったし。

『天才伝説横山やすし』は名作だと思うが、それでも、どうして横山やすしのなの?という「?」はあった。同じ時期に亡くなった藤山寛美じゃないのはなぜか?

以前、冗談で、江戸っ子=スワローズファンという説を披露したけれど、居心地悪さとか、周囲との違和感ということでいえば、案外冗談ではないかも知れない。ジャイアンツというチームは、良くも悪くも、田舎ものを惹きつけるための装置だった。東京という町自体にそういう側面はある。だけど、自分たちの町として、東京に生まれ育った小林信彦さんたちには、それはちょっといやであって当然だと思う。