鬱の一年

knockeye2005-01-06

吉行淳之介『鬱の一年』を読み終えた。エッセー。吉行淳之介は、一面売れっ子作家なので、今の時点から振り返ると、どれを読もうか、選択に困ることになる。最近、読んだものでは『暗室』がよかった。
暗室 (講談社文芸文庫)
よかったと思ったら、谷崎文学賞という賞を受賞している作品だった。よかったので、他にも何か読んでみようと思い、初期の作品『原色の街』を読み、これもよかった。『砂の上の植物群』は、ぐっと若い頃読んでいて、よい印象を持っている。だけど、今のところ、他に何を読めばいいのか、ちょっと迷ってしまっている。
このエッセーはよかった。本当はこの正月、他に読もうと思って、実家に持ち帰った本があったが、偶然、梅田の古本市で手にした、池田満寿夫と、吉行淳之介を読んでしまった。池田満寿夫の方は、ちょうど富岡多恵子との関係が破綻した頃に書かれたもので、微妙に生々しい。富岡多恵子は、同郷のよしみだけではなく好きな作家で、一時期は新作が出るたびに購読していた。池田満寿夫富岡多恵子も、サクセスした人たちだと思うが、池田満寿夫の方は、サクセスストーリーというより、シンデレラストーリーというべきで、ボロアパートで女と同棲していた男が、一夜明けると、世界的著名人になっているわけだから、その事実だけでも、読書のモチベーションはあがる。
彼のような存在は、異例中の異例だろうし、富岡多恵子にしても、そうだと思うが、それにしても、60年代、70年代の青春の雰囲気が、かいま見られる気がした。
吉行淳之介のものも、偶然、ほぼ同時期に書かれている。こちらは、世代がまた上がるので、落ち着いた雰囲気だ。タイトルにあるとおり、当時、鬱病を病んでいて、その上に、アレルギー皮膚炎、その他もろもろの体の不調で「体が弱いので、長くは生きられない」みたいなことを書いているのだが、私の思い過ごしかも知れないが、この人のエッセーを読むと、どこかに必ず、「俺は、セックスが強い」みたいな一節が挿入されている気がする。「身体が弱い」のも、「セックスが強い」のも、多分本当なんだろうけど、合わせ読むとなんとなくユーモラス。
ついでなので、ちょっと引用しておく。

ところで、小説製造機及び美人に関連のある事柄だが、このごろ小説の形が変わってきたとか、若い人の書く小説が大そう上手になったとかいうことをよく聞く。確かに、私小説風の文章は影をひそめてきて、いきなり面白い巧みな物語がはじまってしまう。外国では、詩から散文に移るというのが作家の普通のタイプと聞く。この場合、詩というのは、文章の鍛錬というばかりでなく、自分自身にかかずらわり、自分自身の内部の風景を表現したいという気持ちのあらわれた形という意味でもある。わが国の私小説は詩の代用になっていたという説があるが、その説は今述べた点でも正しいとおもう。具体的な例でいえば、梶井基次郎の作品がそれで(というと、あれは私小説ではない、という人が現れるにきまっているが、それは私小説という言葉の解釈のちがいである)、「のんきな患者」に至って眼が外側に開きかかり散文へ移行しかかった時に、彼は夭折してしまった。こういうプロセスを経ていない若い人の小説には、したがって作者という人間が投影していない。現代風の「苦悩」がちりばめてあっても、それは小説製造機の苦悩というボタンを押して製造されたものと違いがないことになる。こういう小説が流行するようになると、昔なら文学を必要としなかった人種が、文学の世界に這入ってくることになる。コンプレックスから解放されていて、世の中をのびのびと暮らしてゆける人種が小説を書く現象が起こる。

なんとなく、意外だったので、心に残った。
マウスの上に水をこぼしてしまったせいか、左クリックの感じがおかしい。マウスだけでも買い換えようかしらむ。今日まで、DELLがお正月セールをやっていたのに、またまたうっかり逃してしまった。