遺留品

knockeye2005-01-19

遺留品 (講談社文庫)
パトリシア・コーンウエル『遺留品』を読み終わった。面白い本を読んでいると、「これは読書なんだろうか?」という理不尽な疑問が頭をかすめる。読んでいるというより、読まされている感じで、あっという間に読み終わってしまう。ビデオやテレビを観ているのとあまり違わない。
ケイ・スカーペッタ物の3作目であるが、今回の主人公はアビーと思ってよかったのだろう。シリーズ物の読者は、(少なくとも私は)、なじみの登場人物、たとえば、スカーペッタがスカーペッタらしく、マリーノがマリーノらしく反応してくれれば、それだけで安心していたりする。そんなわけで、うっかり隠れた主人公を見逃したりする。こう書いても、未読の人の興を殺ぐことはないだろう。安心してどうぞ。
推理小説にとって、犯罪の動機は、あまり重要でなくなってきているだろうか?最近は、現実の犯罪でも、「動機」が腑に落ちることなどめったにないので、あんまり動機がわかりやすすぎると、却ってできすぎに感じてしまう。犯罪のニュースを受け取る側は、動機の部分で納得したいものだけれど、現実には、その部分で見事な絵解きをしてもらうことは、誰もがとっくにあきらめてしまったように見える。
思い出してみれば、シャーロック・ホームズの『緋色の研究』
緋色の研究 (創元推理文庫 101-5) なんて、たしか後半のほとんどが、動機の陳述で、あの部分がなければ、あれは長編ではなく、他の作品と同じ短編になっていたはずだ。今、人は共感のもとに生きてはいない。唯一の共通認識は、他人は自分と違って当たり前ということである。むしろ、人間かくあるべしみたいな考え方の弊害の方に敏感になっている。物語は、犯罪の前ではなく後にあるということなんだろうか?