まかないめし

読書熱がさめつつあるのを感じる。私の読書には波がある。

木村伊兵衛の本を中座して、赤瀬川原平を読んだのは、よく考えると偶然ではなかった。ファインダーを覗いてシャッターを切る、その瞬間が、自分にとって、写真の楽しみのすべてだった。デジカメを選ぶに当たってFZ−1に行き着いたのも、あれにファインダーがあったからだ。ライカの単独ファインダーの見え味が素晴らしくて、シャッターを切るのを忘れるなんて、私には名人伝とか十牛図とか、中国の故事のように聞こえてしまう。
デジカメは電池がすぐ切れるし、起動に時間かがかかる。その意味では、完全機械式カメラに白黒フィルムなど入れて、ポケットに入れておくのが楽しいかも知れない。そのシャッター音が軽快であったりしたらさらによい。
僕とライカ 木村伊兵衛傑作選+エッセイ
木村伊兵衛の『僕とライカ』は、寄せ集めの観がある。中には、「・・・より抄録」なんていうものもあって、ちょっと気持ちがはぐらかされてしまう。こういうエッセー集は編集の力に負うところが大きい。以前読んだ内田百輭の『漱石先生雑記帳』なんか、百輭が漱石について書いた文章の寄せ集めだったけれど、編集が素晴らしくて百輭の小説より却って面白いくらいだった。
漱石先生雑記帳 河出文庫
ただ、収録されている写真はさすがに文章以上に語りかけてくる。私としては、名取洋之助とか野島康三とかの横顔をもっと知りたい気持ちだったが、面白かったのは、アンリ・カルチエ・ブレッソンとの交流に触れた部分。添えられている彼のポートレートがまたいい。木村伊兵衛ブレッソンに私淑していたそうで、語り口もなめらかになるのだろう。読んでいて、巨大な絵画の国であるフランスでは写真はどのような位置にあるのだろう?とか、戦後間もない頃のフランス人は、日本や日本人をどのように見ていたのだろう?とか、いろいろな疑問が湧いてきてしまった。
ともかく、今度木村伊兵衛で何か買うとしたら、著作ではなく写真集にすべきであると心に誓った。
久しぶりに、糸井重里インターネットラジオ「チャノミバ」を聞いた。浦沢直樹がゲスト。例の{PLUTO」にアトム君が登場するシーンについて、実に興味深い話。聞いてみて損はない。
が、ここで触れたいのは、立川志の輔と話していた「まかない飯理論」だ。一流の料理人たるもの自分が食うまかない飯をおざなりにするはずはない。しかし、まかない飯であるから、財に飽かして、贅を尽くしているはずもない。一流食材の客にださないところを使って、しかも、自分では作らず弟子に指図して作らせるものであろう。
このまかない飯は、単に旨いだけでなく、実はコアなんではないか?つう話と聞いた。
いいかえると、立川志の輔立川談志が客前では見せない絶妙に面白いところを見ているはずだ。ところが、これを客前に出すのは実に難しい。まかない飯がいかに旨くても、客に出すとなると、どうかという話。
この話は、実は写真なんじゃないかと思ったのだ。写真は「写っちゃう」のだ。まかない飯と店に出す料理とを切り離せないのだ。木村伊兵衛を早速引用すると「レンズの尖鋭度の問題は、写真が絵画の影響下に発展してきたため、寧ろその尖鋭さの発揮を恐れて絵画に近づけようとするいろいろな技法が用いられてきたものである。人物写真の場合、写し出された皮膚の細部を殺そうとして修整法が行われたり、顔はもとより、背景やその他のものも或る場合は抹殺して、絵画に近づけていたものであった。」
志の輔氏は「調子でしゃべるな」と弟子によく言うそうだ。しゃべることが見つからないと、いかにもそれらしい語り口調だけで間を埋めてっちゃうのだ。