法然の哀しみ

ヤマザクラ

今日からお仕事。だが、遅出。
梅原猛 『法然の哀しみ』上下を読んだ。
法然の哀しみ〈上〉 (小学館文庫)
法然の哀しみ〈下〉 (小学館文庫)
解説の山折哲雄氏によると「さほど目新しい内容はない」そうだが、専門家にとってはそうだろうが、そのくらいが私にとってはわかりやすかった。梅原猛の著書では『水底の歌』という、柿本人麻呂に関する考察を読んだが、
水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫)
あれは、文句なしに独創的だったはずで、あれほどの目新しさはないという意味だろうか?
この本にも書かれているが、法然上人という人には著書が少なく、また、弟子の親鸞聖人のように、小説に取り上げられたりもしていないので、なんとなく全体像がとらえにくい。梅原猛のような博覧強記の人が、丁寧にまとめ上げてくれるのはありがたい。しかも、文庫本で読めるんだからすごい。考えてみると、これを文庫化した編集者がすごいのか。
上巻は誕生から浄土宗の教えを確立するまで。特に、スリリングなのは、『観無量寿経疏』を介して交わされる、善導大師との時空を超えたやりとりである。やりとりって言ったらおかしいのかも知れないが、そういう風に思えてしまう。膨大な一切経の中から『観無量寿経疏』にたどり着き、それを二度読んであきらめ、3度目にようやく真意を読み解くなど、余人にできることではない。
本文から引用。

・・・これが、『無量寿経釈』の大要である。私は、それを読んで、法然独自の論理のみごとな展開に舌を巻いた。口称念仏を救いの根底におくというのは、法然の大胆な仮説にちがいない。しかし、その仮説にもとづいて、彼はみごとにひとつの思想体系を構成した。それによって釈迦と阿弥陀の存在の意味が明らかになり、全仏教が聖道と浄土の二門に分かたれ、しかも浄土教の優位が高らかに宣せられる。そして、その専修念仏の理論によって彼は、『無量寿経』ばかりか『阿弥陀経』『観無量寿経』をも、みごとに首尾一貫した論理で解明する。つまり彼はもっともたしかなものであると思われる口称念仏の立場に立って、すべての経典を解釈して、そこにみごとな論理の体系を構成したのである。 日本人にして自らの論理を信じてそのような独創的な思想体系を立てたような人は、法然以外には見つけられないのではないか。・・・

また、有名な「善人なおもて往生をとぐ。況や悪人をや」という言葉が、法然上人のものであったというのも、なんとなく喜ばしい。親鸞聖人という人は、これまた法然上人と違ってやたらと著作が多い。そのせいで、法然人とは別の宗派を建てたかのように見えてしまうが、やはり、親鸞聖人はあくまで法然上人の弟子だったのだろう。
法然上人に著作が少ないのは、ひとつには相手に応じて説法の仕方を変えていたこと。どんなに言葉に気を配って書いたとしても、文章は結局読む側の読解力を要求する。法然上人がこれにあまり期待を寄せなかったとしても不思議ではない。
もう一点は、法然上人が、「最初の一人」だったこと。まずは布教が第一だったのではないか?そのためには、旧仏教との対立は避けなければならない。上の『無量寿経釈』とは、或る法要で法然上人が説法したその草稿である。ライブで人に直接語りかける時には、法然上人は、梅原猛が舌を巻くほどに論理的であったが、それをあえて書物にはしなかったのだろう。
梅原猛は、法然上人と善導大師の説は、微妙に異なっているといい、「大どんでん返し」があるというが、これは、あるいは、梅原猛の仕掛けなのかも知れない、私には、法然上人は、「偏依善導」の言葉通りだと思えた。たぶん、それだと寧ろ定説通りで、本として面白くないという気持ちがあったのかも知れない。
観無量寿経疏』(善導大師の著書)を二度読んで、3度目に「大どんでん返し」を発見するわけだが、その時発見したのは、善導大師の真意だったはずだと思う。だからこその「偏依善導」だったはずだ。

下巻は、教団の発展と法難。そして、弟子たちのその後だが、この人間模様が実に面白い。人はほんとうに不思議だと思う。特に心惹かれるのは隆寛である。この人は、一方で叡山に籍を置きながら、法然上人の弟子でもあったという人。法然上人が流罪になった時は、まだ弟子というより、ちょっと法然シンパの天台僧という程度だったらしいが、その後専修念仏に傾き、法然上人没後

十五年目に起こった、いわゆる嘉禄の法難のときには、彼は法然教団を代表して、定照という叡山の僧が著した『弾選択』に対して、『顕選択』という書を書き堂々と反論する。

そして、八十歳にして流罪に処された。隆寛という名前は、今度はじめて知った。派手な存在ではないが、「遅れてきた弟子」なのに、法然没後にあえて流罪になった。

親鸞は、隆寛の書いた『一念多念分別事』を聖覚の『唯心鈔』とともに、法然の専修念仏の教えをもっとも正しくわかりやすく伝える書物として弟子たちに勧めている。

法然上人より、弟子たちに却って著作が多いのは、ひとつには教団が大きくなるにつれて、他宗派からの批判に答えざるをえないという一面もあった。その最たるが、親鸞聖人なのだろう。こうして法然上人についてつぶさに見てくると、やはり親鸞聖人より法然上人の存在が巨大であることがよく分かる。親鸞はやはり法然の弟子であり続けたのだろう。自分の教団を作ろうとしなかったのは、寧ろ当然だと思えた。