『青柳瑞穂の生涯』

青柳瑞穂の生涯―真贋のあわいに
青柳瑞穂の孫娘がピアニストだと最近知った。
ピアニストが見たピアニスト
『ピアニストが見たピアニスト』という本が話題になっている。著者略歴に目を通していると、「青柳いずみこ、青柳瑞穂の孫」とあった。青柳瑞穂の孫がピアニスト。相変わらず意表をつく。
しかし、あらためて「青柳瑞穂とは何者か?」と問われると、私は井伏鱒二の登場人物としてしか知らない。尾形光琳筆の肖像画を発見した人、といえば、「ああ、あの!」という人もいるか知れない。光琳の人物画は、まだこの一点しか知られていないはずで、この「お宝発見」の経緯は、井伏鱒二の文章に生き生きと描かれている。井伏鱒二のファンなら青柳瑞穂の名前は忘れがたい。
先頃、講談社文芸文庫から
ささやかな日本発掘 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
『ささやかな日本発掘』という本が出た。鑑定団以来、定着した感のあるお宝ブームが、この本を再刊させたのであろう。井伏鱒二ファンである私はこの本を買ったかも知れない。そして、読んだのかも知れない。はっきり覚えていない。やはり、井伏鱒二の印象が強すぎるみたいだ。
ときどきフランス文学の翻訳者にこの名前を見かける。フランス文学を生業にしている骨董の目利き、そして、井伏鱒二の友人。そんな風にしか思っていなかったが、今回のこの本は、予想を超えて面白かった。
いづみこの父は、同じ家に暮らしながら、祖父瑞穂とまったく口をきかない。という、なにやら不穏な家庭のありようが、まずは、知らされる。まるで、どこの家庭にでもあるような書き方だ。しかし、この決定的仲違いの原因は、後に知らされることになる。もちろん、ここではそれは書かない。
話は、瑞穂の学生時代、それから阿佐ヶ谷の彼の自宅に集まった、井伏鱒二太宰治、外村繁、などなど、多士済々の文士たちの、戦中戦後の興味深い逸話に転がっていく。
そして、光琳の発見。これを読んでいると、骨董という道楽は狂気の沙汰であると分かる。他の阿佐ヶ谷会の文士たちが、作品のために、骨身を削るのは、まだ、凡人にも分かる。だが、瑞穂は、良い骨董を手に入れると、本業が手に付かず、来る日も来る日も気の済むまで、お宝を眺めて暮らしてしまうのだ。
若い頃、詩人を志したという瑞穂の、美に対する狂気が垣間見れるが、裏返して言えば、どちらかといえば、淡々とした日常を描いていたかに見える、阿佐ヶ谷の文士たちも、同じような狂気を隠していたと言えるのだろう。特に、戦局が暗転していく中では、そのような逸話が多くなってくる。
瑞穂は、結局、作家にはならなかった。:原語でフランス文学を読み、光琳古備前の真贋を見分ける目が、手の動きを妨害した部分もあったかも知れない。いわゆる眼高手低というヤツである。あるいは、単に資質かも知れない。が、その資質が、創作をしなかったからと言って、凡庸ではなく、狂気をはらんだものであったということを、この本は気が付かせてくれる。
長年、あちこちに寄稿されたものに加筆修正したものらしく、視点に偏りがなく、親族としての反発や共感も客観的に描出されている。資料も並大抵の量ではないようだ。日本エッセイストクラブ賞を受賞している。