靖国について

今から靖国神社について何か書く。こういう時のために誰にもURLを知らせていないのだ。翌日、職場の誰それに「靖国について」なんて論議をふっかけられたらたまらない。
日本の宗教といえば、まず鎌倉仏教で、国外にも信者が多い。だが、靖国神社は海外に信者なんているわけないのだ。靖国神社が「現代人の心の病」を解決したりするわけない。つまり、国際宗教としての普遍性はないので、その限りにおいてただの迷信にすぎない。
宗教としてはただそれだけのことで、靖国神社について論議している人も、ミリンダ王所問経とか大原問答みたいに法論をたたかわせているわけではない。それはそうだろう。「戦争で死んだ人は神様になります」みたいなことを真顔で強弁されても論議にならないのだ。しかし、実際に戦争で家族を失った人にとっては事情が違ってくる。無念の思いがよりどころを探すのだろう。そこが、実はこの宗教を利用する側の狙い目だった。この宗教は、人が家族を思う気持ちをナショナリズムにすり替える、実に見事な装置だ。
本来なら「役人や政治家が息子を殺した」となるはずの無念を「息子が国のために死んで神になった」という妄想に、靖国神社は換えることができる。戦後60年たった今でもまだその手に引っかかっている人がいるのだから、上手いことを考えたものだ。そういう人たちは、靖国神社があるために、肉親の死を、心から悲しむことさえできない。だが、同情する気にはなれない。神様になんかなっちゃいないのである。そんなことは分かっているべきだ。A級戦犯合祀が云々いわれるが、靖国神社自体が戦犯だろう。マッカーサーは、まず靖国神社を解体すべきだった。解体しなかったために、この装置は今、新しい利用者を韓国と中国に見つけた。日本製のこのナショナリズム勃興装置、かなりお役に立っているようだ。