横しぐれ

『横しぐれ』 丸谷才一
横しぐれ (講談社文芸文庫)
探していた本は見つからないので、こちらを読んだ。丸谷才一の短編は、細部の寸法まできちんと測って作られているようだ。フルスクラッチのフィギュアみたいな見事さ。
『横しぐれ』は、種田山頭火を題材にした小説だが、発端は語り手である国文学の教授が、父とその友人が四国旅行のおりに、たまたま出会った僧侶は、種田山頭火ではなかったか?と疑いを持つところから始まる。
だが、全編を読み終えて振り返ると、この発端は、巧妙に造られた迷路の入り口であったと気づかされる。別にそこから入らなくてもよかったじゃないか?たとえば、あそこでも、あの場所でも、あるいは出口から逆にたどってもよかったんじゃないのか?と、いろいろ考えながら、この迷路を俯瞰する場所に立つと、やはりあそこからはいるのが一番楽しめたんだろうと納得させられてしまう。読み終わった後、物語が立体的に立ち上がる。「お見事」としかいいようがない。
たぶん、山頭火について評伝の一つや二つ楽に書ける下地がありつつ、その5%くらいしか見せていない。山頭火の自由律の俳句のように、余分なものを削り落として、ひとつの切り口だけですべてを見せている感じだ。
この発端自体作者の全くの創作であろうと考えて、舌を巻いていたのだが、文庫版のためのあとがきによると、グレアム・グリーンの伝記に彼の父親が、友人とナポリを旅行中、オスカー・ワイルドに偶然であったという逸話があったのだそうだ。

わたしはグリーンの自伝を読んで、この話は小説になると考へ、そして、このワイルドに当たる人物は種田山頭火でなければならないと思った。

のだそうだ。
しかし、種田山頭火に横しぐれの句がないのだから、横しぐれというこの題名と、それにまつわる様々な事どもは、やはり、すべて作者の創作ということになる。そう考えて、読者はまたこの迷路を俯瞰する場所に立ち戻り、うーむとうなる事になる。気持ちいいほど見事な小説である。
ところで、先日『伊東静雄 詩がたみ』という本を読んだ時ちらっと蓮田善明にふれたが、この本にこの名前がまた出てきた。種田山頭火は蓮田善明と交流があったのである。
蓮田善明という人について私が知っている事といえば、

敗戦当時、中隊長としてマレー半島にいて、連隊長かそれとも大隊長国賊呼ばわりして射殺し、それから自殺した、

と、本文を引用できるだけの知識しかない。この話を『伊東静雄 詩がたみ』で、読んだ時にはこの人が少しでも有名であるとは思っていなかった。
山頭火の放浪は、国粋主義者としての近代への反発という少々きな臭い一面もあったことを気づかされた。そういう面もふくめて、多面的に山頭火を浮き彫りにしている点でもこの小説は見事なのだが、個人的には山頭火より重要な詩人である伊東静雄が、そういう蓮田善明の死に様を知らされた時、胸中に去来した思いはどのようなものであったかと考えさせられる。
いかに貧しかったとは言え、すでにストレプトマイシンもあった時代に肺結核で亡くなったこと、また、体調が悪い事を自覚しながら、無理をおして学校の行事に参加しているように見える事などを考えると、やや心情を推し量りたい気持ちになる。少なくとも、蓮田善明の死に方を、肯定する気持ではなかっただろう。
萩原朔太郎に「魂を痛めつけられた人の真のリリシズム」と激賞されながらも、白秋や朔太郎とちがい、伊東静雄は、夫婦共稼ぎの高校教師として戦中を生きていた。等身大の庶民の戦争に対する感覚みたいなものが、伊東静雄の態度に感じられると思う。