『腕(ぶら)一本・巴里の横顔(プロフィル)』

今朝、ゴミを出しにいったら、月の間近に火星が見えた。気をとられながらゴミを投げると、猫があわてて飛び出した。猫ってのは基本的にバカで、いつ見てもかわいらしい。
火が恋しい季節になった。新穂高のかつさんのオフ会はまたまたハイテンションに盛り上がることであろう。去年までは日帰りコースだったので、仕事終わりに顔を出せたが、今年は無理。この週末は、東京モーターショーではなく社員旅行。仕事みたいなものだ。
腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)
藤田嗣治の『腕(ぶら)一本・巴里の横顔(プロフィル)』を読み終わった。エコール・ド・パリの一角を占めた画家のエッセー集。
金子光晴の『ねむれ巴里』にもちょっと出てくるが、その時の藤田は既にちょっと格が違った。金子とちがって藤田には明治の気骨を感じる。もしかしたら彼は当時世界で一番有名な日本人だったかも知れない。日本を知らなくてもフジタは知っている人もいたか知れない。なのに意識の片隅で日本を背負っている感じが藤田嗣治にはある。
そういう彼が国に裏切られたことは悲劇であった。日本人は,「世界のクロサワ」を冷遇したが、「世界のフジタ」に対しては冷遇どころではなかった。国吉康雄もやはり日本では暖かく迎えられなかった。
まとめて観たことはないがフジタの絵は独特である。一見してフジタとわかる。佐伯祐三ヴラマンクに「アカデミック」と罵倒されるずっと前に、独自の画風で巴里のサロンを席巻した訳だから、やはりこれは天才の仕事だろう。
日本画壇というと反射的に横山大観「無我」を思い出してしまう。あれのどこが名画なのか誰か教えてほしい。だいたい何が「無我」なのか?どこが「無」でどこが「我」なのか?フジタの白や面相筆を使った線が単なるエキゾティズムと批判されるなら、横山大観「無我」なんて観光客相手の土産物にすぎない。しかもたぶん売れ残るだろう。
画家や詩人に戦争責任をなすりつけようとするやり方は、本当に責任のある連中が責任逃れのために考え出したに決まっている。それに「画壇」や言論人がまんまと乗っかるのが情けないし、それをそのまま信じる一般人もどうなってるんだろう。
考え出すときりがないが、国際舞台で活躍した明治の偉人フジタが、昭和の惨めさをあぶり出している気がする。