明恵上人

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

明恵上人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

講談社文芸文庫版の巻末に河合隼雄が文章を寄せている。あいかわらず読みが深くて面白い。本文より先に読んでしまった。ときどき冗談でユング派を自称することがあるにもかかわらず、ユングの書物は一冊たりとも読んだことがない。私にとってユングは、つまり河合隼雄なのである。
明恵上人という人は、一言でいえば、よき守旧派だったのだろう。新しいものが生まれると、古いものは、良くも悪くも、すべて切り捨てられてしまいがちだ。だが「師に辞し衆に違して思を山林に懸く」ということは、よき師にめぐり合えなかったということでもあり、それ自体が旧仏教の限界を示しているともいえる。
河合隼雄白洲正子を評して「サムライ」と書いているが、それは同時に「お嬢さん」ということにもなりはしないかと、私は疑ってしまう。法然親鸞にくらべると、明恵という人はまだ甘いと感じた。白洲正子は、明恵の釈迦への愛を強調するが、タイガースにたとえていえば、その愛は川藤の愛だとおもう。星野仙一の愛とは違う。
白洲正子の視座は本地垂迹に置かれているのではないか。その地点から眺めると、たしかに、明恵はいきいきして見える。つまり仏教と土着の信仰との融和だが、これを単に妥協とか未熟と切り捨てるべきではないという考え方は白洲正子から教わった。信仰の本流と離れた部分では、親鸞聖人もそれを否定しなかった。古来の神への信仰を日本人は簡単には捨てられないのだろう。
そこにはたぶん個人としての自我ではない自我にふれるものがあるのかもしれない。そういうことは長いこと否定してきたが、わたしという生き物のなかに自我以外のなにかがあっても別に不思議ではないし、忌避することもないだろう、