闊歩する漱石

knockeye2006-06-30

闊歩する漱石 (講談社文庫)

闊歩する漱石 (講談社文庫)

うっかり書き忘れていたけれど、わたくしこちらで働き始めて、今週でちょうど一年である。この先の一年が、この一年の延長かと思うとうんざりする。
フリーター上がりのわたくしだけれど、好き好んでフリーターという選択をするのは、一般的にいって、働きかたが不器用な結果ではないか、と思えてきた。ほっといたら延々と仕事をしている。少なくとも傍目にはそう見えているかもしれない。切り替えがへたなんだろう。働いて働いて疲れて辞めて旅に出る。そんなパターン?
それからわたくしの場合、仕事よりも困難なのは人間関係。ネットにスペースを持ち始めて気づいたことだが、インターネットを間に置いた距離感。人によっては遠すぎると思う向きもあろうが、わたくしにとってはちょうど心地よい人間関係であるようだ。スープも何も冷め切る距離。まさにネット越しの関係。
それはさておき、
丸谷才一の『闊歩する漱石』を読み終わった。漱石を明治の文豪という固定観念で捉えずに、西欧の文学の流れの中で捉えると、口でいうのは簡単だが、丸谷才一ほど博識衒学でなければ到底できることではない。
漱石がイギリスに官費留学していたことは誰でも知っているが、わたしらは、つい無視してしまう。「それは作家になる前のお話でしょ?」みたいな感じで。しかし、夏目漱石という作家は、よく考えれば西欧の文学史の中にこそ存在していたのだ。『坊ちゃん』『三四郎』『吾輩は猫である』を論じたこの本を読むと、そのへんのことが実に見事に俯瞰できる。特に『三四郎』を論じた「三四郎と東京と富士山」にはうならされる。

あれはおそらく明治末年の青春を、ひいては近代日本の運命を、優しく憐れむ言葉なのだ。いささか舌足らずなものの言ひ方かもしれないけれど、何しろ明治の人間は無口だつたから、それはまあ仕方がない。鎖国からいきなり開国して帝国主義の時代に身を処してゆかなければならない幼い日本が、漱石にはいとほしくてならなかったのである。
(略)
漱石は日本をかはいさうだと思つてゐた。それが彼の愛国であつた。

なんて、どうにもかっこいいなあ。
漱石は流石に漱石で、もう読みつくされたかと思うと、また新しい光が当てられたりする。情報として消費しつくされることがない。この本の中でも紹介されていた『不機嫌の時代』の山崎正和が『こころ』のなかで使われている「寂しい」という状態は、「不機嫌」を一歩推し進めた状態かもしれないと言っていた記憶がある。それは、はるか昔の不確かな記憶だが、漱石というのは、「そういえば漱石が」という感じで、折にふれ思い出される存在のようだ。
小林信彦さんが『うらなり』という小説を書いた。『坊ちゃん』にでてくるあの「うらなり」のその後を描いた小説だ。目の付け所が小林信彦で、うれしくなってしまう。さっそく注文した。