選評など

knockeye2006-08-17

北方領土ちかくで日本の漁師がロシア人に撃ち殺された。プーチン大統領の初期は北方領土の問題を解決する絶好のチャンスだったように思っていたが、過ぎ去ってしまったようだ。北方領土問題は、領土問題ではなく戦争責任の問題なのだ。
だから、こういうことがいえるのではないか。どんな答えでも、とにかく答えを出さないで60年も過ごしていては、一歩も進まない。前の戦争を戦った相手のなかで、とにもかくにも答えを出した相手はアメリカだけで、そしてその国とはなんとかやっている。原爆を落とされ、いまだに軍隊が駐留しているのに、である。
昨日の補足であるが、伊藤たかみ氏の芥川賞受賞作「八月の路上に捨てる」を選評を読んでやめちゃったというのもひどい話なので、その選評の一部を引用しておきたい。
まず、高樹のぶ子

受賞作『八月の路上に捨てる』は若者の生活疲れを描いている。一所懸命に生き、真面目に働いても、社会からずり落ちていく若者が増えている。本作の中に将棋の"けむりづめ"が出てくる。自分の駒が煙みたいにどんどん消えていっても、最後には勝つ、という詰め将棋の用語だとか。最後の勝ちを夢見て、失う痛みに耐えている若者のシャビイな切実さが、おそらく勝ちなど無いであろうとの予感と共に、胸をうつ。(以下略)

実はこれを新聞でみかけて読んでみようかなという気になったのだ。
次は、宮本輝

・・・しかし、だからこそ、『八月の・・・』という小説には、もっと大きな芯が土台として設定できたのではないかと不満を感じた。

アルバイト青年とベテラン女性社員の、生活というものへの姿勢。それぞれの私生活の陰翳。それらの描写の積み重ねは、『八月の・・・』ではある地点から膨らんでいかない。それは、小説の土台が初めから小さいからだと私は思う。

多くの働く人が見るもの、感じるもの、味わうもの・・・・・。それらを超えた何かが小説の芯として確かに沈んでいなければ、その小説になにほどの意味があるのか・・・・・。
(以下略)

このあたりでちょっとどうしようかなぁと思ってしまって、次に村上龍

「なぞる」という言葉がある。たとえばトレーシングペーパーを使って原本コピーからの写経のような行為を指す。「真似」とは違う。今回の候補作はどれもレベルが低く、小説や文学というものを「なぞっている」ような気がした。
(略)
「現代における生きにくさ」を描く小説はもううんざりだ。そんなことは小説が表現しなくても新聞の社会欄やテレビのドキュメンタリー番組で「自明のこと」として誰もが毎日目にしている。

キッツイこと言わはるわ。
しかし、「にん」でしょうな、いわゆる。たしかに『希望の国エクソダス』とかの村上龍の仕事をみると、これを言う資格がある。
で、まあ、読む気がなくなってしまったわけである。伊藤たかみという人は、三回連続で芥川賞候補にあがったそうだから実力はある人なのだろう。ただ、わたしはこのひとの著者近影というのか、すこし斜に構えた写真をみていて、なにか痛々しい印象を受けた。それが高樹のぶ子の選評とみょうに一致してしまって興味を持ったのだ。
けむりづめか。この先に勝ちがないとしても、ちっぽけな美学が捨てられない。それが今の普通の人ではないか?勝つことにしても、生きることにしても、そんなに大それた期待を抱いている人がいるだろうか?