古い話

小林信彦佐藤優を褒めている。小林信彦が褒めているからには間違いない。どんなものでも小林さんのご紹介なら試して損はない。本でも映画でもほとんど小林さんの言うがままにチョイスしてきたわたしがいうのだから間違いない。古いところではルース・レンデルの『ローフィールド館の惨劇』がそうだし、たぶん、パトリシア・ハイスミスもそうだった気がする。絵のほうではフェルメールとか。バロネス・オルツィの『隅の老人』なんて小林信彦氏の言及がなければ絶対読まなかった。
ところが、人を褒めて紹介記事を書くのがこんなにうまい氏なのに、逆にけなすのは昔からへたみたい。小泉純一郎攻撃がまったく不発に終わっているのを見てもよくわかる。「いやだ、きらいだ」といっているだけで、どこがどう悪いというあたりがはっきりしない。もちろん、読者としては、氏にそういう政治向きの話を期待していないのもたしかだ。「その話はもういいじゃん」と思ってしまう。
誰が一番上手に小泉純一郎をけなしたかには興味を持っている。政治家としての欠点が今までの政治家と違うので、ありきたりの文脈ではうまくけなせなかったはずだから、小泉さんをうまくけなした人は、これからの政治を見るための新しいスタンダードを持っていることになる。だけど、残念ながらそういう人はいなかったのだろう。
田中角栄立花隆が追い詰めたナントカいう本が文庫化されたとき、読んでみようとして、一章もいかないうちに断念した。学生たちに手伝わせて集めたという膨大な資料は、結果が分かった後から読んでもうんざりする。人をけなすのには執念みたいなのが必要だ。小林信彦氏にはそれは似合わない。
わたしが「小林信彦」という字の並びをはじめてみたのは、大滝詠一がプロデュースした『クレイジーキャッツデラックス』というCDのライナーノーツだった。バブル前夜で女の子たちはみんな、今の韓国人みたいな化粧をしていた。あのころは少なくとも若かったが、あのころからずっと世間に背を向けている気がする。
はて、あのころ小林信彦サブカルチャーだっただろうか?サブカルチャーという言葉自体が見事に死語だが。
ところで、今週の週刊文春池澤夏樹が触れているロシアの岡田さんに、わたしはハバロフスクでお会いした気がする。わたしが会った岡田さんとこの岡田さんが同じでない可能性ももちろん大きいが、わたしの会った岡田さんは、おかっぱ頭のやせた人で、声を聞くまで男か女かわからなかった。シベリアの民話を集めている作家の本を翻訳していると言っていたはずだ。
右手首の捻挫が治りきってなくて力が入らないわたしを手伝って、その作家と二人でバイクをガスツィーニツァ・アムールの玄関まで引き上げてくれた。ちょっと酔っ払ってたが、アツイ人だった。