互酬

昨日紹介した丸谷才一の『女ざかり』で「互酬」ということばがどういう脈絡で出てくるか。
主人公が勤める新聞社の恒例の飲み会で、北欧には政府から補助金を受け取っている新聞社があるらしいという話題が出る。そうなると「言論の自由」はどうなるのだろう?政府を批判しにくくなるんじゃないか?と誰かが言う。そのとき論説顧問になっている経済学者が「互酬」という言葉を使う。
「ええ。贈与にはゴシュウといふことがつきものでしてね。」
政府から補助金をもらうと、政府を批判しにくくなるのではないかという考え方が、実に日本的だといいたいわけだと思う。論説顧問は、政府に対するお返しは、阿諛追従だけでなく苦言、忠告、諫言などでもよいのではないかといいながら
「でも駄目かな?やつぱり政府は怒るかな?」と冗談にして話をしめくくり、新しく水割りを作ろうとすると、主人公(女性)が
「先生、あたしがします。」
「いやいや、自分でやりますよ、こんなことくらゐ」
この小説は、こういうぐあいに政府や国家の話が、日常の男女間の関係と呼応するようになっている。このあたりは主人公の書いた社説が、物語を動かし始めるところなので、ここで「互酬」という聞きなれない言葉が使われているのは、プロローグということなのかもしれない。このあと、普段気が付かない日本という国の特殊性がコミカルに描き出されていくわけである。
欧米人からすると、(と、十把ひとからげにはできないが)贈り物に対してかならずお返しをするという習慣は、かなりな奇習にみえるらしい。
文化の違いだといってしまえばそれまでだが、その違いは多様性によるのではなく、文化の未熟さにあるのではないかという疑いが残る。そのあたりは阿部謹也氏がアイスランドサーガや日本の「くがたち」などで検証していた。
少なくともわたしたちは、その差異に自覚的でないことは確かだろう。自分たちの状態を自覚していないっつうのは、大概かっこの悪いことになるはずである。