光の帝国

knockeye2006-11-12

風の強い日だった。だから、風がおさまった夜より、快晴の昼間の方が寒かった。
珍しく計画通りに、今日は上野に出かけた。実際に出かけてみると、上野公園は今、想像以上の美術展ラッシュだった。昨日あげたものの他にも、京都国立博物館の仏像コレクションも来ている。木之本の駅前にある渡岸寺の十一面観音像は、関東の人にはなじみがないかもしれない。京都国立博物館の仏像は、仏像の概念を破壊してくれるはずなので、興味のある人には一見の価値があるだろう。しかし、わたしは学生時代に何度も見ているのでもういい。
さて、手始めにベルギー王立美術館展に入ったが、フランドル絵画がおなかにもたれた。どうもわたしはあれが体質に合わない。脂っこすぎる。農夫がいっぱい集まって酒盛りしている絵があったが、個人的にはこの酔っ払いどもの絵を壁に掛けて何が面白いのか、全く分からない。今の世ならまちがいなくメタボリック症候群といわれそうなバッカスが酔いつぶれて、それをまた別の酔っ払いが支えながら、横の女にちょっかい出している絵もあった。だからこれがどうしたんだ?全く分からない。
それに、いちいちの画題が日本画と比較できてしまう。砂漠の民を描いた絵とか、聖ナントカの奇跡なんていう絵は、日本画で言えば「お見立て」である。足の裏まですべすべな砂漠の民なんているわけないし、聖ナントカに登場する役人が17世紀風の衣装を着ているわけがないと思うのだ。
鶏の絵もあったが、これは明らかに若冲の方が上。ナントカ城の城下町を俯瞰した絵は、洛中洛外図、須磨図のほうがずっといい。狩の獲物の鹿や兎を吊るして静物画にする趣味も感覚的にはよく分からない。
日本画と互角かそれ以上だなと思ったのは、肖像画だった。金持ちは聖ナントカや、ジプシーに扮するより高価な服を着て立派な椅子におさまっている方がいやみがない。
それだけ文句言うなら、見に行くなと言われそうだが、それを補って余りあるのは、ルネ・マグリットの『光の帝国』であった。この絵の回りにも人だかりができていたが、ぺちゃくちゃしゃべる手合いはひとりもいない。見るものを黙らせる名画だった。そのほかにもフェルナン・クノップフとかポール・デルヴォーとかになると俄然よくなってくるのだが、いかんせんちょっと数が少なかった。
その後、エルミタージュを見るべく東京都美術館にも入ったのだが、「ただいま大変混雑しています」の札を見ていやになってしまった。ダリだのエッシャーだの、見る気がしなくなってしまったので、不忍池ぞいにぶらぶら歩いて、下町風俗資料館に立ち寄った。時々落語の席もあるそうだが、今日はビデオで誰かが「百年目」を話していた。二の酉もすぎ、よく晴れた風の強い日は、江戸の昔をしのぶのによい日なのではないか。これからはときどき、東京をぶらぶらしてみてもいい。京都や奈良とおなじくここも古都なのだから。
近くに旧岩崎邸があるので行ってみた。ところが、ここも人でいっぱい。これにはびっくり。富山の森家あたりは、いついってもほとんど人がいないのに。
せっかく朝早くでたのに美術展一本というのもしゃくなので、帰りがけの駄賃に新宿の東郷青児美術館に寄った。なにがやってるか記憶になかったが、ウィーン美術アカデミー展。「うわっ、また腹にもたれそうだなぁ」と思いつつも、「人は少ないだろう」と多寡をくくっていると、ビル風吹き荒ぶなか、入場制限するほど長蛇の列。聞くと今日が最終日だからということだが、ウィーン美術アカデミーにそれほど人が集まるとは。印象派以外は人が呼べないという定説は嘘だったんだろうか?ともかく、わたしとしては琴線にふれる絵はなかった。
新宿東口前の武蔵野館で「ゆれる」という映画を見た。香川照之オダギリジョーが兄弟を演じる。
家族愛に甘い幻想を抱けば、人は家族愛に傷つく。幻想をトリップして帰ってくるところは、もとの現実ではなく、たいてい現実よりはるかにひどいところだ。
「ゆれる」という題名はすごくうまい。「泣ける」とかそういう映画ではない。