最後の瞬間のすごく大きな変化

knockeye2006-12-16

現実との距離感がしっくりくる。ちょっと最近いろんなことの距離が近すぎるな」と思ったときにはよい読書だ。
村上春樹が翻訳に苦労したという文章は、うっかり読み進んでいると「えっ」と何ページか後戻りしたりすることになる。表題作より「父親との会話」「長距離ランナー」が気に入った。長距離ランナーっていってもぜんぜん走ってない。42歳の白人女性で、デブらしいのである。
小説の主人公が女性である場合、美人になってしまう場合が多い。たとえば、丸谷才一の『輝く日の宮』とか、特に美人と書いてないけど読み進むと、どうもすごい美人らしいぞと思わせる。『女ざかり』もそう。だいたい、男性の作家はブスを主人公にしないと思われる。
女性の作家だって、そんなにちがわなくて小川洋子の主人公だってブスだとは思わない。映画化されても深津絵里が配役される。森三中だって成立したはずなのにである。
はなはだしいのはパトリシア・コーンウエルの描くケイ・スカーペッタだ。60近くなっているのに年下の彼とメイクラブに及ぶことになるし、しかも彼は彼女に夢中なのである。パトリシア・コーンウエル自身がじっさい美人だし、アメリカも社会が高齢化していることだろうし、ありうるかもしれない。
しかし、グレイス・ペイリーの小説は、普通の白人のおばさんが主人公だ。読みながら、これはどこかで味わったことのある感覚だなとおもっていたが、日本でいうと、郷土の先輩、富岡多恵子に似ている。アメリカの富岡多恵子か。富岡多恵子はもともと詩人として出発しているが、この人も若いころは詩人ではなかったろうかとおもって、あとがきを見てみたが分からなかった。けっこう詩が挿入されているし、文体のリズムが村上春樹のいうように、くせになる。
いい女が主人公もいいが、普通のおばさんが主人公のいい小説は、また別の味わいがある。