- 作者: 大竹伸朗
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2004/07/01
- メディア: 文庫
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すべての人が、言葉を持っているとは限らないかもだが、もしピアニストが言葉を持っていたとしたら、青柳いづみこのような本が生まれるだろうし、それがロックミュージシャンなら、忌野清志郎の『十年ゴム消し』みたいな本が生まれる。それと同じように、画家が画家の言葉で紀行文をつづると、このような本になるのだろう。
たとえば、ローリングストーンズのブライアン・ジョーンズが、世を去る一年ほど前に、モロッコで録音した町の音に処理を加えて発表した「ジャジュカ」というアルバムについて
神というものがこの世に存在するとしたら(大げさな話ではなく、神でもなんでもいいのだが)、いつの世も、神は肉体を持つ人間を実に気まぐれに、そしてあまりに無造作にひとりを選び、奇妙な時間を与え、変なモノをつくらせる。世の中にはまだまだそんな、ある種の突起物がごろりところがっているものだ。
わたしは、大竹伸朗のこの本についても、同じことを言いたい。
60年代後半、ヒッピーの聖地だったという、ジャマ・エル・フナ広場を屋上のカフェから眺めた描写、
視線を下に移すとそこには「いま」があり、僕のほうは音とともに、屋上と同じレベルの宙にいた。なにかまったく別の世界が空中を支配し、そこにはめちゃくちゃな時間軸上に配置されたドップラー効果の怪物のような、ある感覚の空気が、あらゆる人間の時空間感覚をひっかきまわす強力ななにかとして、すぐ目の前にどんよりと在った。
旅の途中で、このような感覚に陥らない旅人がいるだろうか。でも、それをこんなにオリジナルな形で表現できる文章にもそうやすやすとは出会わないものだ。
文庫の解説を書いている角田光代は、この本を読んで衝動的にモロッコに飛んだそうだ。だが、肝心のこの本を忘れてきてしまった。こう書いている。
たとえば本書に出てくるジャルダン・マドレールやタンジールの海岸通りをおぼろげな記憶をたどって私は歩いたが、大竹さんが書いているのは大竹さんの目から見える世界であり、逆に言えば彼はかんたんに目に入ってくるものをほとんど書いていない。たぶん、本書を持ち歩きその通りに歩いたとしたら、私には何も見えなかっただろう。
この本は、画家の目が見たものを画家の文章を通して追体験できる、なかなかえがたい「突起物」といえようか。