ちいさな幸福

うっかりDVDを延滞していた。返しにいくついでにそのあたりで夕飯にしたのである。仕事に追われているせいで、ついものぐさになり、無駄な出費がかさむ。残業せずに帰って自炊生活をしたほうが、家計の上でははるかに有意義である。それもサービス残業となると、なにをやっているのかわからない。
夕方の空模様を見極めつつ、軽装で出かけた。この夏はバイクに乗るのにブーツも履かない。メッシュのスニーカーにテンセルのジーパン、上はアロハである。往復10キロも走らないと思うと、自転車通勤のままの格好になってしまうし、観天望気の結果次第では、雨具もめんどくさいということになる。
無駄な出費を清算し、満腹になって帰路に着いたが、家に近づくにつれて路面が濡れ始めた。冠水しているところさえある。どうやら一時的、局地的なスコールであったらしい。DVDの延滞のおかげで雨を逃れたようだ。雨男の私としてはめずらしいことで、ちいさな幸福を味わったりした。多分これ以上ちいさな幸せもちょっとないだろう。
愛国心は悪党のさいごのよりどころ」というサミュエル・ジョンソンの原典を探している人がいた。西部 邁氏にまで聞いてみたが「知らない」といわれたそうである。ご苦労なことだが、もし、これがサミュエル・ジョンソンの言葉なら、原典はひとつしかなさそうなものである。
しかし、それよりなにより、どんな文脈で発せられた言葉にせよ、「愛国心は悪党の最後のよりどころ」なんて、ジョークに決まってんじゃん。それ以外でありうるか?引用するほうだってそのつもりで引用してるでしょ。数式を引用してるんじゃないんです。サミュエル・ジョンソンが言ったかどうかの真偽すらどうでもいいので、「サミュエル・ジョンソンが言ってたんだけど・・・」という枕にすでにジョークの匂いをかいでほしいものである。
それで思ったのだけれど、ネット型人間(そういうものがあるとして)の特徴としてユーモアの欠如があげられるのかもしれない。彼らにとっては、人を笑ったり、人に笑われたり、笑いはどこまでも攻撃的要素で、人間的共感ではない。どうにもものすさまじい。
関西差別主義者からときどきやり玉に挙げられるダウンタウンの笑いにしても、たとえば、『ごっつええ感じ』の「とかげのおっさん」のコントは、貧者と被差別者への共感が明らかだと思うがちがうだろうか。その部分があるかないかはけっこう大きいと思っている。