『小津の秋』

小津の秋
恋することや生きることが、お伽噺や映画のように、もっと明快だと思えた昔があったかもしれない。しかし、それが明快でも単純でもないと知った後には、誰もがまた最初から物語を始めるしかない。はじまりはたしかに単純だ。むかしむかしあるところに男と女がいた。
舞台は長野県の蓼科。季節は秋。沢口靖子土偶の取材で訪れた雑誌記者である。「縄文のビーナス」と呼ばれる妊婦の土偶。出土するときはかならず壊されている。はじめから壊す目的で作られていたらしい。そのあたりには女神を祀る神社も多く、山の神は女神で、醜く嫉妬深いと信じられている。
さて、この物語は何を語り始めているだろうか。語っているのは藤村志保である。彼女は小津安二郎がシナリオを執筆した無芸荘という庵の守女をして暮らしている。彼女の幼なじみであるホテルの支配人を通して、ふたりは出会う。
だが、なぜ藤村志保がこの物語を語っているのだろう。観客は少し耳を澄まして聞かなければならない。二人の本当の出会いはどこにあったのか。この物語はいつ始まったのか。
やっと秋らしい涼しさになったので、今日はジャケットを着た。渋谷のシネマ・アンジェリカに『小津の秋』という映画がかかっている。ひさしぶりの渋谷。温泉が爆発する前から来ていない。私が渋谷に行く目的は、Bunkamuraの美術館か、点在する映画館かのどちらかだから、興味のある出し物がないと足が向かない。
渋谷駅からマークシティーの4階を突っ切れというのはなぜだろうと思っていたら、駅を出るときは4階でも、映画館に出るサンクスあたりで着地しているのだ。渋谷の坂はなかなか急であるらしい。
秋という季節はどんどん短くなっていると誰かが言っていた。九月という月を夏と秋で取り合いしているとしたら、24日というころになってようやく秋めいているようでは、夏の圧勝といわざるをえない。しかし、信州の秋はそうでないことを私はもちろん知っている。10月のはじめに雪に降られたこともあった。夜はひどく冷え込むはずである。
信州の長い秋の夜は、もつれた物語をとくほぐすのによいだろう。無芸荘の囲炉裏に向かって二人の女優が対決するシーンは圧巻であった。
つくづく思うのだけれど、映画は写真だなぁ。絵ではない。時が写るのだ。絵の才能と写真の才能はまったく別のものみたいだ。写真はどうせ全部写るのだから、いろんなものが写りこんでいないと面白くない。演出が見え透くのである。だから、見えないところまで全部作りこんでいないと映画にならない。
当たり前みたいだけれど、アニメは絵であるらしい。宮崎駿テートギャラリーをテレビで訪れていたが、ジョン・エヴァレット・ミレーオフィーリアを見て、「自分が目指しているものをはるか前にやっている人がいた」と発言していた。その後、一枚の絵を描いて、「この絵が出来れば、もう作品は出来上がったようなものなんだ」とも。
ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアが、だんだん川に沈んでいく姿が、宮崎駿の頭の中には、見えているのかもしれない。