楽屋裏から

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

この題名については、レイモンド・カーヴァー夫人のテス・ギャラガーに許可を得ているそうだ。
村上春樹が小説家になる決意を固めたのは、神宮球場ヒルトンが二塁打を打ったときだというのは、以前に出版された別の本にも書かれていたが、それが単なる比喩でないことを改めて確認した。内心、どうでもいいと思っていたわたくしであるが、どうでもいいことだとしても、変更可能なことではないということを確認したわけである。そういうことの積み重ねが全体であるとことを、わたしはつい忘れてしまう。まず最初に、もやっとした全体があって、それから細部をあれこれいじりまわすやり方は、最後には破綻するらしい。

・・・もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。・・・

このほかにも耳が痛かったのは、肥りやすい体質のほうが(村上春樹自身がそうらしいが)、長い目で見ると得だという話。私自身の体型についていうと、不摂生にもかかわらず、大学時代からほとんど変化がないが、そういう人はガタッと老け込むと。最近、それを実感している。異常なほど疲れやすくなってしまった。基礎代謝がいいということは、反面、スタミナが蓄積できないということである。

やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。


真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。

以前には、作家に必要なのは足腰の力だとも語っていたと思う。こういうことは本当は楽屋話なのかもしれない。「たぶんこういうものを書くには、ちょうど良い人生の頃合いだったのだろう。」とも書いている。
最近、こういう楽屋話によく出会う。
ダウンタウンのピークは1995年であったとわたしは思っているし、プレイボーイに連載している松本人志の文章に、金を払うつもりはないけれど、テレビ番組の作り方に関する発言は、愚直なほど生真面目だと感じることがある。彼は自分の番組ではCMまたぎで同じ映像を繰り返すようなことはさせないそうだ。それは視聴者を裏切る行為で、そういうことを繰り返していると、目の前の視聴率があがったとしても、長い目でみると客が離れると思うのだそうだ。
以前に笑福亭鶴瓶が「家族に乾杯」のスタッフに語った言葉を紹介したが、楽屋裏から見ると一流は歴然としているのかもしれない。断言はできないが。
今日は上野にムンク展とフィラデルフィア美術館展を観にいった。ついでに岡倉天心展も観てきた。
ムンクを観にいくときはいつも、内心、晩年の少女の裸婦を期待しているのだが、今回はなかった。ムンクというとあまり興味のない人はたいがい「叫び」を思い浮かべてしまうので、あの人の手技の確かさが伝わらないのが残念だ。
しかし、ムンクの女性観が屈折していたとは、絵を見る誰もが思うことだろう。エゴン・シーレが長生きして大成していたら、あんな絵を描いたのではないかと思う。
水に映る月や太陽の影が特徴的で、「性を象徴しているのではないか」と解説されていたが、湖にうつる月影が性を象徴しているとしたら、そのこと自体がかなり個性的ではないかと思う。
ところで「嫉妬」というけっこう有名な絵があるが、あの画面前方で嫉妬に燃えている男の顔はムンクの友人で、ムンクはその人の奥さんと実際に不倫関係にあったそうだ。そのへんの神経はもう理解不能である。
フィラデルフィア美術館(ロッキー像が建っているところ)展は、モネ、マティスルノワール。ジョン・シンガー・サージェントも一点。モネには印象派の功罪を全部負わせてしまいがちになるが、現物を前にすると、やはりこの画家はいける。「ポプラ並木」の絵はすばらしい。「光がさしていたのはわずかに7分だった」そうだ。それが7分でこの絵を描きあげたことを意味しているのかどうか知らないが、とにかく一瞬の印象を捉えられる画家である。
マティスは、渋いのとキャッチーのとあったが、どちらも「やられた」という感じ。線と面と色の配置がなんともいえない。「なるほどそう来たか」と思ってみてしまう。そういう見方が望ましいのかどうかいつも不安に思うが、いつもそういう風に見てしまう。「そこにその色おいてこっちにそう来る?」みたいなことである。
ジョアン・ミロの「月に吠える犬」という名作もあった。パウル・クレーの「魚の魔術」もそうだったが、わたくし基本的に黒という色が好きなので、黒をうまく使っている絵の前ではつい長居してしまう。
ルノワールの「アリーヌ・シャリゴ(ルノワール夫人)の肖像」は、ある意味では気恥ずかしく、ある意味では感動的である。こういう絵はムンクにはない。ムンクには生涯うつ病に悩まされた妹さんがいて、その肖像があった。
岡倉天心展は芳崖を観にいっただけ。悲母観音一点だけだった。あれは芳崖の中ではそんなにすきではない。
さて、家に帰ると、小沢一郎が辞任していた。どうやら本気で連立を考えていたらしい。そういうことをされると前の選挙で民主党に入れたこっちの立場がなくなる。連立がだめになったからといってやめられたのでは更に困る。ふってわいたような連立話が立ち消えても持論は通せるはずである。その投げ出し方が小泉純一郎との差かなぁ。
ついでながら、ムンクフィラデルフィアも思ったほど混んでいなかった。みんなフェルメールに取られたか?