わたしという空間

わたしは、他の人にとっては、わたしという空間のはずである。
ところが、わたしにとってのわたしは、わたしという時間なのである。
その時間の中には、九州ですごした幼いころがあり、徳島の少年時代があり、大阪に消えた思春期があり、京都でつぶした学生時代がある。その後、どこの馬の骨とも分からぬままに各地を転々とした挙句にロシアまで横断して、いつの間にか歳をくっている。
こういう場合、「・・・して今に至る」とか書くのが普通だろうが、実感として今に至っている気がしない。どちらかというと至らないかぎりだ。
「今」は、空間としてのわたしと、時間としてのわたしの唯一の交点であるはずだが、どうも交わってる気がしない。
いや、そうじゃないのか。まちがっているらしい。今の自分がわたしであって、過去の自分はわたしではないのに、わたしは過去が捨てきれないらしい。多分24歳くらいの過去からそうらしい。もう実際は自分でもディテールが思い出せないくらいの過去で、すでに記号になってしまっている。
気がついたら、今日は誕生日だったのである。