吾妻山

knockeye2008-01-06

転々 (新潮文庫)

転々 (新潮文庫)

去年の今頃だったか、菜の花越しの富士山を見に行った二ノ宮の吾妻山公園に、今年も出かけた。
しかし、残念なことに、今年は去年植わっていたところに菜の花がなく、菜の花なめのべたなアングルは撮れなかった。
ファインダーからじっと覗いていると、富士山はつくづく何の変哲もない。テレビドラマに譬えると、あれはいわば「水戸黄門」、由美かおるが花を添えればこそ話が持ちもする。黄門さまが一人でうろうろしていても誰も見向きもしないだろう。
年が改まるころとうってかわって、今日はまるで春の陽気だった。去年はもう少し早い時間に来ていたので、メジロが花の蜜を吸うらしい姿が見られたのだが、今年はそれも見られなかった。
午前と午後と吾妻山を往復したので、足腰に来てしまった。
吾妻山の公園で何をしていたのかといえば、ほとんど読書をしていた。去年映画で見た『転々』の原作。映画は原作を可なりいじった感じだったので、どういじったのだろうと興味が沸いた。
原作と映画はほぼ全く別物で、女房を殴り殺してしまって、自首するついでに東京を散歩する全共闘世代の借金取りと、借金をチャラにしてもらう代わりにその散歩に付き合わされる天涯孤独の若者というこの設定が秀逸であって、そのいれものにはいろいろなエピソードや仕掛けが、扱う作家しだいで盛り込める。
映画では、借金取りを三浦友和が、若者をオダギリ・ジョーが、それぞれ演じていたのだけれど、小説では物語の核となっているのは、むしろオダギリ・ジョー側のエピソード。映画はどちらかというと、三浦友和により重点が置かれているように思った。
従来の巻き込まれがたのストーリー展開なら、巻き込まれる側(オダギリ・ジョー側)のストーリーではなく、巻き込んだ側(三浦友和側)のストーリーが展開していくはずだと思うが、小説ではそうなっていない。巻き込まれる側、つまり、受身の側のストーリーに小説全体を引っ張っていかれると、どうも乗り切れない気がした。
というのも、小説のナレーターが若者なのだから、読者の視点はどうしてもそちらに寄り添う。最初は巻き込まれて物語が動き出すのだから、そのまま、主体の物語とは距離を置いて引っ張られていくほうが、加速がつきやすいのは事実だと思う。
それはちょっと定番すぎる、といわれるかもしれないが、ただ、そうでないと、巻き込んだ側(借金取り側)のストーリーが未消化にならないだろうか?
ラストのどんでん返しは、なるほどと、これもうならされるものだけれど、設定の骨格がしっかりしているだけに、少しそれとぶつかってしまう気がする。映画ではそれは削ってしまっているわけだが、削りたい気持ちはわかる。散歩の動機がぶれてしまう。
何か、難癖をつけているような書き方をしてしまったが、最初に書いたように、この設定が秀逸なだけに、無数のバリエーションが可能で、映画も小説も鑑賞してしまうと、ここは映画のほうがいい、ここは小説のほうがいいと較べてしまうので、ついついそういうことになってしまった。