独酌余滴

knockeye2008-02-20

独酌余滴 (朝日文庫)

独酌余滴 (朝日文庫)

明るい月夜。帰路、二匹ねこを見た。猫は夜目が利く。自分が見えるから、相手からも見えているだろうと判断するらしく、こっちが自転車で近づくと、ガサゴソ逃げ出して、かえって存在を知らせてしまう。いくら明るい月夜だからといって、息を潜めていれば、物陰の猫までは気がつかないのに、この猫の判断は、はたして賢明なのだろうか。多分、猫に気がつかない人間てふ生き物のほうが少数派なんだろう。
しかし、真夜中に猫を見かけるようになると、そろそろ春。日中は日差しも柔らかくなってきた。去年の春ごろ、夜勤の帰りに付きまとわれて困った子猫たちは、無事に一冬を越したのだろうか。
免疫学者として有名な多田富雄のエッセー集『独酌余滴』を読んだ。能に造詣が深く、文学青年だった若いころは、江藤淳などと同人誌を発行して、詩を書いていたそうだ。最晩年の白洲正子と交流があった。
白洲正子は気になる存在であり続けている。ただ、どうしても個人的に嗜好が向かないのは、小林秀雄にしてもそうだが、この人たちが、美の鑑賞者としてホンモノであっても、美の創造者ではなかったとすれば、モーツァルトについてどんなに鋭いことを言ったとしても、モーツァルトには及ばずともも、実際に作曲をした音楽家のほうが、創造の秘密を知っていたといえないだろうか。
そういうことを言ってしまうと、評論という行為自体を否定してしまうことになりかねない。もちろんそういうつもりはないが、ややもすると、評論家のほうが作家よりステータスが高くなりがちであることが、私には気に食わない。
若き岡本太郎小林秀雄に面会したときのエピソードを以前紹介した。骨董について何の知識もない岡本太郎が、小林の見せる骨董についてつぎつぎに鋭いことをいうので、感動して他にも何か見せようと棚を漁る小林の後姿を見て、「なにか可哀想な気がした」と、たしか書いていた。美を造る側と鑑賞する側の決定的な差だと感じた。
岡本太郎であるからこれが説得力をもつのはもちろんだが、名もない画家でも、いつかは名品を描く可能性を持っている。しかし、鑑賞者の側にはそれがない。
作家にも評論はできるが、その逆はない。たぶん、評論家は目がすぐれすぎていて、自分の習作が稚拙であることに耐え切れないのだろう。
うっかり白洲正子の話になってしまったが、エッセーの内容は多岐にわたる。いわゆる専門バカにはこういう文章はかけない。もちろん、免疫学のエキスパートなので医学の話もある。中で驚いたのは、日本にはマラリヤの治療薬が手に入らない。のみならず、日本の医者はマラリヤが診断できないというくだり。世界中でそんな国はないそうだ。
風間深志の一件を思い返しても、日本の厚生行政が実際の患者を見失っているのは間違いなさそうだ。
まえに南京のことにふれたときにも書いたが、ふつうにエッセーを読んだり、バイク旅行のレポートを読んだりしているなかで、こういう情報にちょろちょろ出くわすようになるころには、日常生活でゴキブリを発見するのと同じことが起こっていると私は思う。一匹のゴキブリをみかけたら、百匹の見えないゴキブリがいるといわれている。
ちょっとFZ−5を引っ張り出して撮影してみた。画素数は少ないし、なんとなくのっぺりした感じの写りには不満もあるが、軽さと小ささは感動的だし、望遠のボケ味はなかなかいい。これにフジフィルムのCCDが載ってくれればなあ。