『エデンの東』読了

戦場の死は、気高さとは無縁のところで起こる。ほとんどの場合、それは人肉と体液の四散であり、結果は汚い。だが、電報とともに家族を訪れる悲しみ___には、とてつもない、目にも美しいほどの気高さがある。いまさら何も言うことはなく、することもない。一つの願いだけがある。苦しまずに迎えた最期でありますように・・・・・・。救いのない、後のない願いだ。だが、この悲しみも、いずれ鋭さを失いはじめる。そのとき、それを徐々に誇りに変質させ、喪失したものの大きさだけ自分の重要性が増した、と考えはじめる人がいる。そして、戦争が終ってから、かつての悲しみを自分の利益のために役立てようとする人が必ず出てくる。ごく自然なことだ。
<略>

だが、サリーナスの私たちは、そうしたこと一切を___悲しみもそれにつづく諸々も___自分が発見したことだと思っていた。

内容とはとくに関係ないけれど印象的だ。
今週は、ずっと『エデンの東』を読んでいた。
カインとアベルの物語をめぐる解釈が興味深い。以前に書いたが、こんなぐあいに、聖書の知識の断片が蓄積されていく。

エホバ、カインに言いたまいけるは、汝、なんぞ怒る、なんぞ面を伏せるや。汝、もし善を行なわば、挙ぐることをえざらんや。
もし善を行なわずば、罪、門口に伏す。彼は汝を慕い、汝は彼を治めん。

スタインベック自身がこの部分の異訳を重要視して、かなり詳しく調査したそうだ。創作日誌に「汝は彼を治めん」のヘブライ語からの「誤訳」を発見して、興奮している様子が見て取れる。それだけに小説は少しそれに引っ張られすぎた感もある。
ただ、仕事に忙殺されるこの一週間で、全4巻を一気に読んでしまったのだから、この本の魅力を語るにはそれで充分だろう。
魅力的なキャラクターの魅力的なエピソードに満ちている。大筋はアダム・トラスクの一代記だが、スタインベックの実の母も登場するクロニクルだから、エピソードのいくつかは実際の見聞なのかもしれない。
とくに、キャシーの悪女ぶりには、風格さえ感じられる。
カインとアベルの話に戻ると、カインが弟アベルを殺した、その罪に対する、神エホバの反応が印象的だ。よく読むと、エホバはカインを罰していない。弟の血で汚した土地からは収穫できない、だから、出て行けと言っているだけだ。
人は自分を殺すだろうと嘆くカインに「しからず、凡そカインを殺すものは七倍の罰を」受けるだろうと言い、「カインに遇うもののカインを撃たざるため」しるしを与えている。七倍されるのは人の罰で、神の罰ではないはずだ。
人は、ときには赦しより罰を願うかもしれない。しかし、それは神に望むべきことではない。
DP1が届いた。
まだ荷をほどいていないが、シグマの話題のデジカメである。28mmの単焦点レンズにデジタル一眼レフのCMOSを搭載している。ちょっと値が張ったが、シグマの独創性に感服して、アマゾンに予約していた。デジカメ時代は、カメラの買い替え頻度が増すようである。銀塩時代は、EOS630に50mmf1.8でシャッターが利かなくなるまで使い倒した私だったが。
やんやさんと平湯で話したことがあった。やんやさんは、自分の目が28mmだと言っていた。私の目は、上記の事情で50mmだと思っていたが、年をふるにつけ、だんだん望遠になっていくように思う。最近はF700を常用カメラとして持ち歩くが、カメラを構えると、その絵は、自分が思っているより、ずいぶん広角なのである。
やんやさんのサイト閉鎖にあたってふと思い出した。これは、目の問題というより、心の問題だったのかもしれない。やんやさんは目配りの利く人だった。対して私は思い込みが激しく、回りに目がいかない。最近は50mmどころか、LumixFZ−5のせいもあり300mmくらいに画角が狭まってしまっているかもしれない。
デジカメ移行以来、初の単焦点であるから、これで視野を広くしなければいけない。多分、FZ−5も併用するけども。