ブライトン・ロック

ブライトン・ロック (ハヤカワepi文庫―グレアム・グリーン・セレクション)

ブライトン・ロック (ハヤカワepi文庫―グレアム・グリーン・セレクション)

表題のブライトン・ロックは、イギリスの金太郎飴みたいなお菓子だそうだ。どこを切ってもブライトンの文字が出て来る。
訳者の丸谷才一は、かなり以前、1952年に、『不良少年』という邦題でこの小説を訳出している。これは、その新訳。たしか、丸谷才一は、著者のグレアム・グリーンと個人的にも親交があるはずだし、作家としてのデビューとも重なるこの作品は、思い入れの強いものかもしれない。
最初に発表されたときの邦題が示すとおり、主人公は一人の不良少年だが、青春小説とはちがい、読者の安易な感情移入は最後まで拒まれ続ける。印象的な第一章では、主人公はまるで、映画でいえば「通行人A」みたいに登場する。
そして、第二章から、彼のことが語られるときは、混じりこんだ異物のような「<少年>」という三人称が使われる。そして、それは、彼の名前が明かされた後も変わらず、最終章まで使われ続ける。
この<少年>は、一般的な少年ではなく、ましてや一般的な不良少年でもない。青春小説にありがちな成長はここにはない。成長、老成、成熟、そういったものは、言うまでもなく欺瞞ではある。それが欺瞞だと知らない人間は信頼できない。それを知った上で、お互いに干渉されるのをさけているのだ。何を避けているのか。もちろん、悪を避けているのだし、そのかわりに善の係わり合いにもならないが、たいていの大人は気にしないだろう。そんなものは、はなからありもしないのだから。

ローズは答えなかった。まったくこの女の言う通りなのだ。正、そして不正、それら二つの言葉は彼女には何も意味しなかった。それらの味わいは、はるかに強い糧___善と悪によっておとしめられていた。この二つのものに関するかぎり、この女があたしに、あたしの知らないことを教えるわけにはゆかない、___あたしはピンキーが悪いということを算術のようにはっきり吟味し、そして知っている。___とすれば、彼が正しいか正しくないかなど、ちっともかまわないではないか。

ピンキーは<少年>の名前である。<少年>が善悪の不在を憎悪しているとすれば、アリバイのために利用され、彼が殺人者と知りながら結婚してしまう、このローズという少女は、善悪の不在に抗議している。
しかし、このラストシーンの耐え難い苦さ。ここにいたっては、読者はこの主人公を、彼の名前ではなく、<少年>として突き放さざるをえないだろう。
私は、このローズという少女の、頑なで柔らかな心を、映画『接吻』の小池栄子の心と重ね合わせてみた。善と悪の問題は、たいていの人が、生きているあいだは棚上げにして、死んでから神様にでも任せようと思っていることだ。しかし、果たしてそううまくいくのか。
<少年>もローズも彼らが二人ともカトリックであることを確信していた。