四川の大地震

マチスとボナールを観た後、ついでに上野に寄ってウルビーノのビーナスを観たことはすでに書いた。
で、上野公園の中を通って根津まで歩いたのだけれど、そのとき、あれはなんと言えばいいのか、大阪で言うと、天王寺公園あたりで見かけるタイプの人々とでもいうしかないおじさんたちが、政談に花を咲かせていた。
「・・・だんだん中国の悪事が世界にばれてよ・・・」
というのが耳に入った。立ち止まって続きを聞くほどひまではない。
今朝の新聞では、四川の大地震の死者は一万五千人という。阪神淡路大震災では、死者の数が三千、四千、とみるみる増えていくので、「重複しているのではないか」と疑ったニュースキャスターもいたが、事実は、あの一瞬で、6500人が死んでいた。
今度は、現時点でさえその2倍以上。おそらく、まだまだ増えるのだろう。
聖火リレーから今回の地震という流れの中で、ふと気がつくのは、私たちが自分たちで意識するよりもずっと、中国を脅威に感じているということだ。しかも、この「私たち」は日本だけでなく世界全体を指すのかもしれない。
たとえば、フランスで聖火リレーの妨害事件が起き、チベット問題への抗議が最高潮に達したとき、中国ではカルフールに抗議するデモが起きた。まともな民主主義国なら、海外の動きに応じて「チベットに自由を」とかいうプラカードを掲げて、反政府デモのひとつも起きそうなものである。
それがカルフールに嫌がらせとは。映画『靖国』の上映館に対する右翼と、行動パターンが一緒。この種の国家主義者は、我国では無視していい程度の一小部分に過ぎないが、それがもしマジョリティーを占めるとなると、これはかなりイヤである。
中国の大地震は他人事ではない。
もともと中国の経済成長は、北京オリンピックがひとつの節目になると考えられてきた。それと時を同じくして、一夜にして死者1万五千人という未曾有の大災害が起きてしまった。
世界経済の牽引車であった中国経済が、単に失速でなく脱線する惧れ。
加えて、都市部と農村の格差がひどく、くすぶっている政府に対する不満が一気に噴出する政治の不安定要因。転がりようによってはどのような性格を持った政権が誕生するか予断を許さない。
バブル経済格差社会、大震災による経済破綻、国家主義的傾向。こう並べてみると、阪神淡路大震災というより、関東大震災直後の日本そのままの状況である。
日本としては、ガソリン税をそのまま中国復興に振り分けてもよいくらいだ。少なくとも暫定税率分くらいは。日本の土建屋全員が路頭に迷っても、少なくとも私は痛くも痒くもないのである。